お疲れ様です、賽目です。
フクキタルが亡くなってから1ヶ月以上が経った今日、小須田牧場さんへ献花に行ってきました。
本当は、もっと早くに行くべきだったのかもしれませんが、同志との約束もありこの時期に。
正直な気持ちを言うと、行きたくなかったです。
がらんとした広場を見たら辛くなるのは分かっていましたから。
実際、こんなに気分が高揚しない旅路は初めてでした。
とはいえ、行かないなんて選択肢はハナから無かったので、意を決して向かいました。
到着すると、ただひとつを除いて、いつもと同じ小須田牧場が迎えてくれました。
僕は、小須田牧場の雰囲気が大好きです。
澄み切った空気と、喧騒のない静かな世界。
たまに聞こえてくるのは、馬の鼻や脚が奏でる音だけ。
まるでこの空間だけ時間が止まったような感覚に陥れる、非日常感を味わえる大好きな場所です。
でも、やっぱり時間は止まってなんかいなくて。そこにはもう、彼はいませんでした。
万が一、億が一でも、「あれは嘘だった」なんて可能性を信じていましたが、自分の目で確認してしまったんです。
しばらく関係者の方とお話ししたあと、広場の隅っこにお花を添えてきました。
献花は、僕がヒマワリで友人が菊の花でした。
友人が「菊花賞を勝ったから」と言っているのを聞いて、そこまで考えが至らなかった自分に若干腹が立ちました。
自分はヒマワリを選んだ理由は、寂しい雰囲気にしたくなかったのと、花言葉を意識したからです。
「憧れ」「あなただけを見つめている」
いつになっても貴方への憧れは消えないし、こんなに愛情を注げる存在は、後にも先にも貴方だけ。これはもう、絶対に。
フクキタルが亡くなってから、気付いたことがあります。
それは、時間とともに死の悲しみや辛さが薄れていくとは限らない、ということ。
あまりこういう例は良くありませんが、例えば親族が亡くなった時。
自分にとって大切な人ですから、当然悲しみもショックも深いと思います。
でも、亡くなる前に毎日その人のことを考えていた人は、少数派だと思うんです。
だから、時間とともに、もとの生活へ戻っていく。
もとの感覚に戻り、悲しみは段々と薄れていく。
そういうものだと思っていました。
でも、気付いたんです。
そういえば、もともと毎日フクキタルのこと考えてたなって。
だから、時が経って普段の生活に戻っても、忘れることはできない。
悲しみが薄れることも、絶対にない。
周りに心配や迷惑を掛けたくないので、弱気なことはこういった場でしか言いませんが、やっぱり精神的には何も変わりません。
でも、多分これで良いんだと思います。
受け入れたり、都合よく解釈したり、納得したり、乗り越えたり……
そんなことせずに、悲しみも苦しさも背負ったまま前へ進みます。
今まで、それ以上に幸せをもらったから……なんてことありません。
小須田牧場にはお墓がないので、フクキタルが眠っているわけでも、そこにいるわけでも無いとは思いますが。
毎年、命日には必ずお花をあげにいこうと思います。
僕が生きている限り、いつまでも。