今回は名作SF『アルジャーノンに花束を』を語ってまいります。
名作ゆえに様々な映像化がされている作品ですが、本作の仕掛けを踏まえるとやはり小説で読んでほしい。
今回は、小説ならではの魅力を踏まえ、本作の面白さを語っていきたいと思います。
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ストーリー紹介:ぼくは、かしこくなりたい。
本作の主人公はパン屋で働く32歳の男性、チャーリィ・ゴードン。
彼は明るく穏やかな性格で、成人男性にしては子供のような純真さを纏っていました。
その理由は、彼の知能が本当に幼児程度だったためです。彼自身もそれを自覚しており、「賢くて優しい周りの友人たち」と同じになりたいと願っていました。
そんな折、チャーリィは開発段階の脳手術の被験者となります。
この手術が成功すれば知能はどんどん向上し、周囲の人たちと同じになれる。彼は賢くなるために手術を決意します。
なお、この手術に先んじて成功している被検体がいます。それはハツカネズミのアルジャーノン。
アルジャーノンの賢さを確かめるためにチャーリィと迷路勝負をしてみると、なんとアルジャーノンの方が先に解いてしまいました。
本作の大きな特徴かつ魅力はこの本が「チャーリィが書いた経過報告書」という体で構成されていることです。
終始チャーリィの1人称視点で綴られるため、手術開始直後は文法ミスや誤字脱字が目立ちます。
しかし、日を追うごとに文体は徐々に変化していきます。誤字脱字や文法ミスは減り、適切に漢字を使えるシーンが増えてくる。本当にどんどん賢くなっていってるのです。
ここは訳者さんが本当に凄いなと思います。原文の英語と意味は一緒にしながらも文章を崩さないといけないですからね。
そして、この”経過報告書”というギミックが秀逸なのは、被験者であるチャーリィの一人称視点で書かれていること。
これによって、彼の書く文章にはその文章以上の情報量が生まれるんです。
文法はめちゃくちゃながらもどうにかして伝えたいという切実さ。
新しく知識を得た時の嬉しさや興奮。
今まで見えなかったものが見えた時の恐怖や怒り。
想像力を得たからこそ起きる葛藤や喪失感。
その感情や想いの細部が「文体」に現れる。
読者にとってはきっと、序盤も中盤も終盤も異なる意味で「読みづらい文章」だと思います。
でも、文体から彼の想いを読み取ろうと努める時、そんなことは忘れるほど没頭してしまう。この読書体験はとても希少なので、ぜひ小説で読んでほしいと思います。
さて、そんな経過報告書の序盤では印象的な一文が綴られます。
ぼくわかしこくなりたい。
本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)15pより引用
これは著者のダニエル・キイスが教師として働いていた頃、授業の進みが遅い「特別クラス」の生徒から実際に言われた言葉です。
キイスは生徒自身が知能の限界を認識し、またそれを高めたいと感じているとは夢にも思っておらず、衝撃を受けたと言います。
その言葉が発端となって生まれた「チャーリィ・ゴードン」という人物は、生涯にわたりキイスの心の内に存在し続けたそうです。
「ぼく、利口になりたい」という言葉がこの日私にとりついてはなれなかった。
彼あるいは彼女の限界を意識して、もっと知能を高めたいと望んでいるとは、私は夢にも考えたことがなかった。
「アルジャーノン、チャーリイ、そして私」p132より
そんなチャーリィは、やはり知性の獲得に前向きでした。
賢くなったら周りの人たちは驚いて、喜んでくれる。もっと難しい話も一緒におしゃべりできるし、友達もたくさん出来る。
作中で印象的なのは、句読点の存在を覚えたシーンでしょうか。彼は覚えたての句読点をとにかく打ちまくるのです。
今日、ぼくはならった、コンマを、これ、が、コンマ(,)、ピリオドに、しっぽがはえている、キニアン先生、が、これ、は大切です、と、いった。
本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)15pより引用
この調子でどんどん知性を向上させていくチャーリィは、当初68だったIQが185になりました。「かしこくなりたい」という願いが叶ったチャーリィに、世界はどう映るようになったのか。
また、世界はチャーリィをどう捉えるようになったのか。次のパートで深掘ってまいりましょう。
構造解釈:世界は認識で出来ている
チャーリィが賢くなっていく過程で特に印象的なのは、「周囲の人々を通じた変化」です。
彼は賢くなる前、パン屋で働く同僚のことをこう評していました。
「ぼくの友だちはみんな頭がいいしみんないい人です」と。
しかしそれは、かつてのチャーリィに「そう見えていた」景色。
実際の同僚たちは知能の低いチャーリィを笑い者にし、日常的にからかっていたのです。
チャーリィは賢くなるにつれて同僚たちの言葉の意味を理解しはじめ、ショックを受けます。
また、彼は幼い頃の記憶を辿り、かつて家庭でどのような扱いを受けていたのかも理解します。
「普通の子」に固執する母親からはヒステリックに躾けられ、もう賢くならないと分かると拒絶される。妹からは「あんなのお兄ちゃんじゃない」と疎まれる。
父だけは彼をかばう様子を見せるも、結局施設に送ることを決意。彼はその想い出を辿り「自分は捨てられた」のだと理解してしまいました。
彼は世界を鮮明に捉えられるようになったことで、どんどん孤独感に苛まれていきます。
そうして私は前にも増して孤独である。
本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)183p
過去の事実は変わらないはずなのに、チャーリィの認識次第で絶望になってしまう。
また、チャーリィの捉え方だけでなく「周囲の人々」のチャーリィを見る目も変化します。
かつては幼児のような振る舞いをしていた彼が何故かどんどん賢くなる様に、周囲は当然戸惑いを覚えます。
例えばパン屋の同僚は、かつて馬鹿にしていたチャーリィが今では自分たちよりも賢くなったことに憤りを隠せなくなります。
同僚たちにとっては「劣等感を抱くなんてありえない相手」。
彼は手術前「賢くなったらたくさん友達が出来る」と思っていたのに、賢くなったら友達がいなくなってしまった。
以前、彼らは私を嘲笑し、私の無知や愚鈍を軽蔑した。
そしていまは私に知能や知性がそなわったゆえに私を憎んでいる。
なぜだ?いったい彼らは私にどうしろというのか?本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)182p
人間なんて勝手なもの。「欠点」を論う人たちは、それを克服したらしたで気に入らなかったりするんです。
例えば芥川龍之介の『鼻』では、人より大きな鼻を周囲から笑われていた禅智内供は、それを治したら周囲から一層笑われるようになります。
私はこれら一連の描写のリアリティが秀逸だと思います。物語として考えるなら「チャーリィに見返され、屈辱感を味わう」というだけの展開でもいいはず。
しかし同僚たちはその劣等感を憎しみや怒りに変え「チャーリィを悪者」として排除しました。
チャーリィは憤慨します。
これまで自分を馬鹿にしていた者に。自分を捨てた家族に。まるで実験動物のように自分を扱う研究者に。
誰もが自分と比較して優越感に浸る、独善的で恩着せがましい連中だ。
何でこんな奴らに、良いように扱われなきゃいけないんだ。僕が馬鹿にされなきゃいけないんだ。
お前ら、ちっとも賢くなんてないくせに。
さて、チャーリィはこれらの経験を通じて一体何を得ていくのか。
作品のメッセージを深掘っていきましょう。
メッセージ考察:賢くなることは幸福か?
先程のいきさつを踏まえると、「賢くなるのは本当に幸せなのか?」という疑問が浮かぶと思います。
この作品は一見「知能が高くなることでチャーリィがかえって不幸になった」……つまり「知性の否定」に捉えられかねませんが、それは「この作品が伝えたかったこと」として解釈するには少し極端だと思います。
例えば、著者のダニエル・キイスは幼い頃から読書が大好きで「知識が増えること」について次のように述べています。
高く上れば上るほど、どんどん遠くまで見えるようになり、頂きに達して振り返りあたりを見まわすと、そこには知識の世界があり――善と悪の世界が見えるのだ。
本文:『アルジャーノン、チャーリィ、そして私』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)91p
そして作中のチャーリィ自身も「知能は人間に与えられた最大の資質のひとつ」と結論づけています。
知識も知能も重要なものだと捉えているのです。
本作のメッセージを解釈する上で重要となるのは「知能成熟」と「精神成熟」というテーマです。
作中においてチャーリィは急激に頭が良くなったため「知能は天才的」なのに「精神が子どものように未熟」という状態に陥ります。
それは寛容さや忍耐力、他者への共感・思いやりなどが欠けた状態。
チャーリィは確かに賢くなったけれど、他者の不誠実や欠点が許せなくなり、日常でイライラすることが増えました。
また、彼は賢くなったのち、支援センターの先生であるアリスに恋をしますが、彼は経験不足や過去のトラウマから彼女の愛し方、人からの愛され方が分からずに苦しみます。
知能が上がったからこそ彼女の魅力に気づけた。
しかし知能が上がったからこそ「正しい振る舞い」に悩み、「彼女の気持ち」に想いを巡らせ、自分の気持ちに葛藤してしまう。
後に、アリスは賢くなった彼をこう評します。
以前のあなたには何かがあった。よくわからないけど……温かさ、率直さ、思いやり、そのためにみんながあなたを好きになって、あなたをそばにおいておきたいという気になる、そんな何か。
本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)205p
例えばエーリッヒ・フロムの『愛するということ』では「愛は貰うことではなく相手に与えること」と解釈していますが、アリスの言う「温かさ、率直さ、思いやり」というのはまさに「相手に何かを与える」行為。
チャーリィはかつて持っていた「愛情にとって重要な資質」を賢くなったことで見失いかけているのかもしれません。
では、彼はどうしてこうなってしまったのか。ここで一度、彼が「賢くなりたい」と願っていた動機について考えてみましょう。
報告書の冒頭にはこんな記述があります。
お母さんわいつもぼくにかしこくなってもらいたがていたからぼくがかしこくなったところを見たらみんなきっとびくりするだろう。
ぼくの頭がよくなったのを見たらもうぼくを追ぱらたりわしないだろう。本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)45p
チャーリィの母親は「息子が賢くなること」を何より切望しており、そのために「賢くなれないチャーリィ」に失望した。
彼にとっては存在否定も同じです。明確にそれを認識していなかったとしても、彼の心の根っこにはずっと愛されたいという想いがあったのかもしれない。
だからこそ、かつてのチャーリィが未来に期待していたのは賢くなれば得られるであろうものだった。
お母さんに褒められるかも。皆が僕を好きになるかも。パン焼きの見習いになれるかも。難しい話だって出来るかも。
つまり、彼は賢くなった先で「何か得ること」を前提にしていました。
でも、実際は失うものばかり。
賢くなったばかりに嫌なものを知り、嫌な目で見られるようになった。
じゃあ真実を知ることは不幸なのか?
賢くなることはいけないことなのか?
いえ、違うはずです。
チャーリィは「賢くなったために周囲から嫌われた」と説明してきましたが、実はそれだけではなく「チャーリィ自身の態度」も如実に変わってしまっていたのです。
かつて自分が「人として扱われなかった」ことに憤っていたチャーリィは、知能を得たことで周囲の人々を「知的な劣等者」として見下し、結果として彼もまた他者を「対等な人間」として扱えなくなってしまった。
それに気付いた時、彼は相当にショックを受けます。しかし様々な経験を経て、チャーリィはこう結論づけるのです。
知能だけではなんの意味もないことをぼくは学んだ。あんたがたの大学では、知能や教育や知識が、偉大な偶像になっている。
でもぼくは知ったんです、あんたがたが見逃しているものを。人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもないってことをです。
知能は人間に与えられた最大の資質のひとつですよ。しかしあまりにもしばしば、知識の探求は愛情の探求を排撃しているんです。本文:『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)45p
知識には「愛情」という両輪が必要なのだという結論。
愛情とは「愛される」ことではなく、「愛する」こと。つまり大切な人に何かを与えられること。
私は、チャーリィが「賢くなかった時」と「賢くなった時」という経験をしたからこそ「知識の両輪となる重要なもの」が見えたのだと思っています。
この作品は終盤にかけての展開が特に魅力的なのですが、それは敢えて語りません。
私にとってあの読書体験はかけがえのないものだったからです。
そしてこの『アルジャーノンに花束を』というタイトルには、「知能の高さにかかわらず、”チャーリィという人間自身”が備えていたもの」が表れていると解釈します。
ぜひ最後まで、この物語を見届けてください。
『アルジャーノンに花束を』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)
『アルジャーノン、チャーリィ、そして私』(著:ダニエル・キイス/訳:小尾芙佐/出版:早川書房)
『愛するということ』(著:エーリッヒ・フロム/訳:鈴木晶/出版:紀伊國屋書店)

