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『人間失格』(太宰治)ストーリー解説|間違った人間はどう生きるか

「生れて、すみません。」

清く、正しく、誠実でなければ排除されるこの世界で
とある人は自分の弱さと悪徳と恥を曝け出しました。

文字を通してそれに触れる時、私たちは自分の弱さと鏡写しで向き合うことになります。

弱さに負けじと頑張る人も。弱さに負けて堕落した人も。
彼が命を削って遺した手記へご案内しましょう。

「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。
目次

第一の手記「道化の華」

『人間失格』は「大庭葉蔵」という男性の手記で構成されています。
「恥の多い生涯を送ってきました」という書き出しが有名ですが、作品としての冒頭は「私はその男の写真を三葉見たことがある」です。

とある小説家が、葉蔵の手記と写真を目にするシーンから始まり、その手記を読んでいくという構造。
第一の手記では葉蔵の幼少期が綴られます。

人間の生活がわからない

葉蔵は、東北の田舎。権力のある政治家の家に、大家族(10数人)の末っ子として生まれました。彼は幼少期から「人間の生活に見当がつかない」子どもでした。

例えば食事。彼には空腹というものが理解できず、周囲から勧められるままに何かを食べるだけで、それはただただ苦痛な行為でした。「ご飯を食べなければ死ぬ」「ご飯を食べるために働く」という仕組みが、彼には脅迫にしか感じられなかったのです。

また、彼は繊細さと聡明さを兼ね備えており、社会・人間・自分に対して常に疑問を抱き、深く苦しんでいました。

自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。

引用:『人間失格』(太宰治)

自分は莫大な不安や恐怖や疑問を抱えながら生きているから、周囲の人間たちの「平然と生きている姿」が信じられない。

みんな何も考えていないんだろうか。自分を疑ったりしないんだろうか。いや、そうではなく、逆に自分より恐ろしい地獄の苦しみを抱えていたりするんじゃないのか。
考えれば考えるほど訳が分からなくなり、彼は人間が全く理解できず、マトモに接することができなくなっていきました。

こうして精神的に追い詰められた彼は、生きていくためにとある方法を思いつきます。

道化として生きる

そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。

引用:『人間失格』(太宰治)

彼が思いついたのは「お道化」です。面白可笑しく自分を装って、ピエロを演じることが彼の生きる道でした。

彼は人間について何も分からないながら「怒らせること」「非難されること」を何より恐れました。だから相手が求める形を演じ、求めるものは全て受け入れ、相手を楽しませることに努めたのです。それは「人間に対する最後の求愛」だったと言います。

本来、人間が怖くて理解できないなら距離をおけばいい。それでも彼は「人と関わり続ける唯一の術」を選びました。
もしかしたらいつか人間が理解できるかもしれない、それは恐怖の対象ではないかもしれないと、スッパリとは諦められなかったのでしょう。

彼は、家庭でも学校でも道化を演じます。非常に賢く学校の成績も優秀でしたが、尊敬されると後が怖いので「ひょうきんもの」を演じるのです。

そうして上手く人間に溶け込み続けますが、彼は結局人間たちの生活が理解できるようにはなりません。

例えば、お父さんの政党の有名人の演説があった際、周囲の人々はそれはそれは褒め称え盛り上げるのですが、
演説が終わったら父と仲の良い人たちでさえずっと悪口を言っているのを見て「何なんだこいつら」と思うのです。

自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。
自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。

引用:『人間失格』(太宰治)

表では言えない感情」の共感

『人間失格』は、夏目漱石の『こころ』と共に日本近代文学の発行部数トップを競い合うほど売れているのですが、これはひとつに「多くの人々の共感を生んだ」ことが挙げられます。

太宰治の作品は「表では言いづらい感情」「本当は持っているけど気付いてない感情」を浮き彫りにすることがあるのです。
例えば『桜桃』では「子供より親が大事、と思いたい。」という書き出しで始まります。

子供より親が大事、と思いたい。

引用:『桜桃』(太宰治)

これは社会通念上はおよそ否定される考え方。親は何より子どもを優先し、時には命を懸ける方が称賛されるでしょう。でも「そう思う人がいたっていい」はずなんです。

この言葉は、家庭でのプレッシャーや不和によるストレスから「自分を大事にしてしまう」ことへの言い訳のようなもの。
でも当然、親心や罪悪感は大前提となる言い訳です。本当に心の底から「子どもなんてどうでもいい」と思っているとは読み取れない。

これは「皆が手本にすべき考え方、称賛されるべき考え方」ではありません。
「大切なものが弱い心に侵食された時、そう思ってしまってもいいじゃないか」という余白なんです。

誰かが本当は持っている本音……「弱い心の本音」を突き刺してくる。『人間失格』はこれのオンパレードと言っていいです。

さて、ではそれを踏まえて「第二の手記」を読んでいきましょう。

第二の手記「日陰者の安寧」

第二の手記は、中学校時代から始まります。
相変わらず葉蔵はお道化を演じ、クラスメイトから人気を得、人間に擬態しながら過ごしていました。

竹一の予言

しかしある日のこと。鉄棒の練習の時間、盛大に失敗して周囲の笑いを取っていたところ、同じクラスの「竹一」という弱々しい男の子に「ワザ。ワザ(わざと転んだだろ?)」と見破られます。

葉蔵は平静を装いますが、内心は天地がひっくり返るほど動揺し、「バラされたら終わりだ」と恐怖のドン底に陥ってしまいます。葉蔵は竹一の死を祈るほどに怯えますが、もちろん実際に手を下すことはなく、仲良くなって彼を懐柔しようと考えます。

とある雨の日。竹一が傘を忘れて困っているところを助け、雨に濡れて耳が痛くなった所を手当てしてあげました。
すると竹一も心を許し「お前は女に惚れられるよ」とお世辞を言うのですが、これが後に予言 のように葉蔵にのしかかるのです。

また、竹一はゴッホの自画像を見て「お化けの絵だ」と言い放ち、葉蔵に衝撃を与えます。
ゴッホの絵自体は前から知ってましたが、これを「お化けの絵」と認めた瞬間、芸術家たちは「この世界に見えている不安・恐怖・おぞましさ」を絵画に昇華しているのだと気付くのです。

きっと自分と同類なのに、芸術家たちは道化などで誤魔化さずに表現しようと努力した。その姿勢に感銘を受け、葉蔵は画家を志します。

その直後に描いた絵は見るも恐ろしく、竹一はそれを見て「お前は偉い画家になる」と言いました。

「お前は女に惚れられる」「お前は偉い画家になる」
この2つは竹一の予言として、葉蔵の人生につきまとうことになります。

悪友との出会い

葉蔵は中学を経て美術学校への進学を志すのですが、お父さんに言われるまま東京の高等学校へ入学しました。将来官吏になるためです。

しかし学校はだんだんとサボるようになり、葉蔵はお父さんに内緒で画塾に通いはじめます。その画塾で、東京下町育ちの「堀木正雄」という男と仲良くなります。

彼は葉蔵に金を借り「この金で奢ってやるよ」という風な「馬鹿で軽薄なお調子者」で、東京での上手な遊び方や、刺激的なアレコレ(酒・煙草・淫売婦・質屋・左翼思想)を教えてくれる「悪友」のような存在になっていきます。

葉蔵も、あまりにくだらない堀木の前では「お道化」を演じる必要もないと、彼と遊び呆けることに居心地の良さを覚えるのです。

堀木と遊ぶ中で葉蔵は「社会のはみ出し者」に対して共感・安心を覚えていきます。例えば、秘密裏に行われる共産主義の会合に連れて行かれると、思想自体にはさして共感していないものの「そこに集まる人たち」と一緒にいるのが心地よく、次第にハマっていきます。

非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。

引用:『人間失格』(太宰治)

葉蔵にとって「正しい世界で生きること」は非常に苦しいものだということが有り有りと描かれます。

ツネ子との心中

しかし、遊び続けられる日々も長くは続きませんでした。父が政界から引退し、前のようにお金の融通が利かなくなってしまったのです。

葉蔵は途端にお金で困り、仕送りの生活費は数日で消え、質屋でお金を作るもジリ貧。その不安から堀木と飲み歩き、例の会合に精を出し、学校も画塾もサボるばかりという生活になっていきます。

そんな時、葉蔵は銀座のカフェの女給ツネ子と出会います。
ちなみにここで言う「カフェ」はお酒を出す業態で、今で言うキャバクラのようなイメージのお店。このような当時のカフェを「特殊喫茶」と言い、コーヒーや軽食のみを楽しむお店は「純喫茶」と呼びます。

ツネ子は葉蔵から見て「完全に孤立している」ように見え、他の女性とは違う侘しさを纏った雰囲気に惹かれていきます。

そうして2人は一夜を共にするのですが、葉蔵はこの一夜を「幸福な夜」と表現しました。作中で彼が自身を幸福だと認めたのはこのシーンだけです。でも、これは一夜きりの関係でした。

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。

引用:『人間失格』(太宰治)

ある日完全に酔っ払った堀木とともに再度このカフェを訪れます。気が大きくなった堀木はこの時「俺の隣に座った女給にキスしてやる!」とはしゃぎ、葉蔵も「構わんだろう」とあしらっていました。

しかし、そのカフェで堀木の隣についたのはツネ子。
このままじゃツネ子はキスされてしまう。いや、でも付き合ってるわけでもなし……と不安そうに見守ります。

「やめた!」と堀木は、口をゆがめて言い、「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。

引用:『人間失格』(太宰治)

これが葉蔵にとっては大変にプライドを傷つけられます。自分が好きになった女性は、客観的に見れば酔漢のキスにも値しないのかと。

これは当然、ツネ子も同じです。
その後2人は前後不覚になるまで酔いつぶれ、明け方、ツネ子から「死のう」と提案されました。ツネ子は不遇な身の上で、金銭的にも貧しく、器量もなく、器用に生きることも出来ない。みじめな毎日に疲れ果て、きっと2人の間で通じる「何か」もあったのでしょう。

また、ツネ子から財布の中身を覗かれた時の「あら、たったそれだけ?」という言葉が、葉蔵に深く突き刺さりました。ちなみに太宰は「名家の生まれ」であることに負い目と誇りの両方を感じていたようで、作中の葉蔵も「まだお金持ちの坊っちゃんから脱しきっていなかった」と言い、生きていけないほどの屈辱を味わいます。

2人はそうして、鎌倉の海で心中を図りました。

しかし、葉蔵だけは助かってしまいます。この事件は新聞などでも報道され、実家の耳にも入りました。

葉蔵は生涯の中で初めて恋心を自覚しました。
そして「ただ1人の好きな人だった」と、一緒に死にきれなかったことに涙し続けます。

第三の手記「人間失格」

ヒラメとの再会

ツネ子と心中未遂の後、「ヒラメ(本名:渋田)」という、議員時代のお父さんの太鼓持ちが身元保証人として引き取りに来ました。かつては腰が低かったであろうヒラメの態度はふてぶてしくなっており、ひとまず葉蔵を家の二階に軟禁します。

その後ヒラメは「あなたがまた学校に行きたいなら、学費などを援助してもいい」「大事なのはお金ではなくあなたの気持ちだ」と、葉蔵に復学を促します。ヒラメは決して裕福な暮らしをしていなかったので、この妙な善意を葉蔵は受け入れられませんでした。

実はヒラメは父との約束で、葉蔵が復学したら充分なお金を貰えることになっていたのです。けれどもヒラメはそれを隠し、あくまで善意という体を崩しませんでした。

葉蔵はそれが気に食わなかったのではなく、単純に「何の裏もない善意」があまりに恐ろしく信じられなかったので「自分は働きます、画家になります」と、ヒラメの家を抜け出してしまいます。

シヅ子との同棲

行く宛のない葉蔵は、とりあえず堀木の家に行きますがあまり歓迎されず嫌な顔をされます。

そこで葉蔵は、堀木が実家では慎ましく暮らしていることを知り、いつでも見栄を張って驕奢に生きようとしている自分とは異なり、ちゃんとONOFFの切り替えが普通は出来るんだと、軽くショックを受けます。

その後、堀木を訪ねてきた編集者シヅ子に惚れられ、彼女の家に住み着きます。作中では「男めかけのような生活」とありますが、現代風に言えば(性的な関係を前提とする)ヒモです。

シヅ子は5歳の娘シゲ子と2人暮らしで、夫には先立たれてる未亡人。葉蔵はシヅ子のツテで漫画を描いて日銭を稼ぎ、一応は3人で楽しく暮らしはじめました。

シゲ子に描いてあげていたギャグ漫画がシヅ子にもウケまして。実際に評判も上々。
ちなみに、後に上司幾太(情死生きた)というペンネームを名乗ります。

しばらく経ったのち、堀木とヒラメ立ち会いのもと「実家と絶縁をする」前提でシヅ子との同棲が正式に認められました。この後、葉蔵の価値観が少し変わるシーンが訪れます。

世間というのは君じゃないか

『人間失格』は名台詞の宝庫なんですけど、中でも個人的に大好きなシーンがここでして。葉蔵は「得体の知れない”世間”」に死ぬほど怯えていたわけですが、堀木の言葉で世間の正体に気付くのです。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。
けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

引用:『人間失格』(太宰治)

「世間というのは君じゃないか」私は最初読んだ時、少し心が軽くなりました。「そうだよな」って。要するに「妙に客観ぶった言い方」で「自分が気に入らない」だけのことをもっともらしく言いたがるんですよ。

だから、そんな意見をいちいち必要以上に重く捉える必要はないなって。確かに、よく見る言い方ではありますけどね……「自分はいいけど」もセットだったり。

このやり取りのおかげで葉蔵は、ぼんやりと「世間」の実態がつかめてきます。自分は人間を恐れ、その人間の集合体である「世間・社会」を恐れてきましたが、実はそんなに怖いものじゃないんじゃないか。実は自分に大した害は与えないんじゃないか、と。

葉蔵は世間への恐怖心が少し薄れた結果、これまでよりも尊大になっていきました。酒浸りの退廃的な生活に戻り、足りないお金はシヅ子の持ち物を質屋に出しました。

そしていっそうシヅ子とシゲ子に迷惑をかけるのですが、それでも誠実に、健気に生きている2人を見て「幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。」と家を飛び出し、行きつけのスタンド・バアのマダムに頼り、またも男めかけという形で住み着き始めます。

葉蔵はそれからバーの一員として馴染み、従業員だか何だかよくわからない存在としてお客と飲み交わすのですが、マダムもお客さんも彼を可愛がってくれ、特段怪しんだり毛嫌いしたりはしませんでした。「世間」はそれほど恐ろしくないと、やはり思うのです。

ヨシ子との結婚

とある折、葉蔵はタバコ屋の娘、ヨシちゃんこと「ヨシ子」に「お酒はおよしなさいよ」と注意されます。彼は冗談半分に「お酒をやめたら結婚してくれるかい?」と言いますが、ヨシ子はそれに「モチよ」と返します。

その翌日、葉蔵はさっそく酒をのみ「ごめんね。飲んじゃった」と彼女の前に姿を現します。

しかしヨシ子は「きのう約束したんですもの。飲む筈が無いじゃないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ」と葉蔵が酒を飲んだことを1mmも疑いません。彼女は「信頼の天才」だったのです。

彼はその純粋さ……作中では「処女性の美しさ」と表現されたそれに縋り、ヨシ子と結婚します。葉蔵は結婚してから幾分まともになりました。お酒はやめ、漫画の仕事に精を出し、2人で映画を観たり喫茶店へ行ったりと、ヨシ子とともに健全な生活を送りつつありました。

世間から希望を見出し「人間らしい生活が出来るかも」と思った矢先、世間は葉蔵に牙を向きました。

罪の対義語は?

しばらくして、堀木が自宅へ遊びに来ました。そこで飲み交わしながら「喜劇名詞・悲劇名詞ゲーム」をします。それぞれの名詞に対して「それが喜劇か悲劇か」を談義するのです。

「芸術が分かるものだけが楽しめる遊び」という認識。「気のきいたものだと得意がっていた」とあるので、「インテリぶったつまらないもの」という客観視はあるようですが。その流れが発展し、議題は「罪の対義語は何か」という話になりました。

「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」
「法律さ」
堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」
罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。

「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」
「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」
「悪と罪とは違うのかい?」
「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」
「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ」

「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」
「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」

引用:『人間失格』(太宰治)

ここのやり取りは、作中で非常に重要な意味を持ちます。
「罪とは何か」の議論において堀木は「お前(葉蔵)のように罪人じゃないんだから、興味がない」というのです。作中において堀木は「普通の人がこう考えるであろうこと」を代弁し、葉蔵との思想の差を浮き彫りにする役割があります。

つまり”人間”たちにとっての「罪」とは、社会のルールによって罰せられる「犯罪」を指している。と彼は気付きます。

葉蔵にとっての「罪」の意識はそれとは異なります。生きる上で背負っている業や原罪。
しかし「普通の人は自分を罪人だと思って生きていない」という対比です。このあたりは私も葉蔵に共感しますね。

適当にあしらう堀木と不毛な議論を交わした後、葉蔵はドストエフスキーの『罪と罰』を思い出します。
筆者がこれを「類義語」ではなく「対義語」として置き並べていたら?と思い至るのです。

対義語だとしたらこの2つは本質が真逆であり、絶対に相容れないものということになる。
つまり「罰を受けたところで罪からは逃れられない」のではないか。人間が決めた「罰(犯罪に対する罰)」なんてものは、本来の「罪」とは何の関係もないんじゃないか、と。

堀木(一般人)の罪に対する意識と真逆の結論ってことですね。実際に『罪と罰』のメインテーマも「人間の作った罰からは逃れられても、罪から逃れることは出来ない」というものなので、合っている気もします。

さて、ここで大きな事件が起きます。
葉蔵と堀木がアパートの屋上で飲んでいる間、原稿を取りに来た商人の男がヨシ子を襲っていたのです。
もちろん葉蔵は衝撃を受けますが、これは単に「そういう行為があった」ことの衝撃ではありません。「ヨシ子の”信頼”が汚された」ことのショックなんです。

信頼は罪なりや

ゆるすも、ゆるさぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑う事を知らなかったのです。しかし、それゆえの悲惨。神に問う。信頼は罪なりや。

引用:『人間失格』(太宰治)

葉蔵はヨシ子を「信頼の天才」と見込んだからこそ、何もかもが信じられない世界で希望たりえる存在だと、結婚を決意しました。
でも純粋で人を信頼していた彼女は、世間から付け込まれてしまう。「いい人」だからといって幸せに生きられるとは限らない。

局は人に裏切られて、快活だったはずの性格すら奪われてしまう。やっぱり「世間」は恐ろしいものなのか? 葉蔵はもう、訳が分からなくなるのです。

先ほど、『罪と罰』の話がありましたが、これはさっきと逆で考えれば「罪を犯したから罰を受けるわけじゃない」とも取れるんです。葉蔵は「信頼は罪なりや」と神に問いましたが「信頼が罪だったから、ヨシ子が罰を受けたわけではない」と私は考えます。

これは理不尽な罰なんです。しかし、その罰は非常に現実的で残酷。この世界は、いったい何なんだろうと。

人間失格

この一件から夫婦はお互いに疲弊しきり、葉蔵は全ての人間が信じられなくなります。

それが高じてまた元の……いや元以上の退廃的な生活に戻り、酒に深く溺れ、その酒を買うために悪い仕事をして稼ぎます。そんな折、家にある砂糖壺の中に「ジアール」という睡眠薬が隠されているのを発見します。封を切っていない、致死量に値する睡眠薬。

しかし、またも葉蔵は死にきれませんでした。この一件はかえってヨシ子を追い詰めてしまい、彼女はどんどん虚ろな性格になっていきます。

その後、葉蔵は薬物中毒になります。薬屋の奥さんと不埒な関係を結び薬物の販売を迫り、本来売ってはならない量を手に入れるのです。罪の意識はあり、希死念慮に苛まれ、それでも仕事で何かしようとまた薬に頼り、借金は嵩み、廃人のようになっていきました。

最終的に、それを知った堀木とヒラメが自宅を訪ね「あとは任せろ」と葉蔵を引き取り、療養所で安静にしようと提案されます。この優しさに葉蔵は涙を流し、彼は車で病院まで送り届けられました。

けれども、自分はそれからすぐに、あのはにかむような微笑をする若い医師に案内せられ、或る病棟にいれられて、ガチャンと鍵をおろされました。脳病院でした。

いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。

堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。
いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人という刻印を額に打たれる事でしょう。

人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

引用:『人間失格』(太宰治)

はあ……「人間失格」ってこういうことなんだ。
連れてこられたのは療養所ではなく脳病院。名実ともに「廃人」となり、彼は自分自身に「人間失格」の烙印を押しました。

ただ、一さいは過ぎて行きます。

葉蔵は脳病院に入れられた後、父の訃報を耳にします。「世間」の中でも特別に恐ろしかった父が亡くなったことで、彼はいよいよ張り合いがなくなって腑抜けた廃人になっていきます。

その後葉蔵は、兄から東北の田舎にある古い家を与えられ、そこに60歳の女中をつけられました。そこで大人しく余生を過ごす、ということです。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

ただ、一さいは過ぎて行きます。自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。

引用:『人間失格』(太宰治)

葉蔵が狂っているのか、世界が狂っているのか。
何にも分からないこの小説における唯一の真理。「ただ、一さいは過ぎて行きます。」

さて、『人間失格』はまだここで終わりではありません。冒頭で小説家が写真を見ていた時間軸に戻ります。

この小説家は、例のスタンド・バアのマダムと知り合いだったんです。

偶然再会を果たした折に「小説の材料になるかも」とマダムから手記と写真を見せられました。彼は手記の内容に興味を持ち、しばらく借りていくことにしました。

神様みたいないい子でした

「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした

引用:『人間失格』(太宰治)

これで『人間失格』のストーリーは終わりです。
では、ここまでのストーリーを踏まえて『人間失格』とはどのような物語なのかを私なりに紐解いていきます。

ストーリー解釈「非道徳を貫いた先にあるもの」

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」という終わり方。

これは一見「人間失格者」にも理解者がいる。
「本当の意味で人間失格なんて人はいない」という希望的な終わり方に読めます。

もちろんその要素もあると思いますが、私は残酷な描写に感じました。葉蔵は自分の他の人間の性質が全く異なる不安、他人を理解できない恐怖に怯え、それでもこの世界で「人間」として生きなきゃいけない苦しみを抱えてきました。

でも、葉蔵は基本的に「赦されてきた」人間なんです。彼自身は世間を恐れていましたが、世間は思ったより自分に優しいし、受け入れてくれる場所もある。

バーではみんな優しいし、女性は自分を全部赦してくれるし、堀木も軽薄ながら付き合ってはくれるし、親族や関係者もフォローしようとしてくれる。

だから作中でも「人間失格」の烙印を押したのは、他でもない彼自身なのです。彼はまだ誰にも「お前なんか人間じゃない」とは言われていない。

それでも事実として廃人となり、幸も不幸なくなり屍のように生きる葉蔵。その事実を全て知った後でもマダムは「神様みたいないい子」と評した。葉蔵にとっては「人間を誰にも失格させてもらえない」残酷さだなと私は解釈しています。

また、葉蔵は退廃的な生活を繰り返し「アルコール・薬物中毒」「借金」「心中未遂」「男めかけ」などアンモラルな行動が目立っていたと思います。

これは太宰の実生活に通ずる部分もあるのですが、彼はどうしてこのような物語を描いたのでしょうか。一説によると彼には幼い頃から「自己のためだけでなく、他のために生きる」という理念があったようです。

この「自己は自己のためにあるのではなく、他我の為にあらねばならぬ」という固定観念は、幼児の環境から次第に育まれたものです。

本文:『太宰治論』(著:奥野健男/出版:新潮社)24pより引用

しかし、彼は万人に寄り添ったわけではなく、『人間失格』で描かれたような「日陰者」に対して寄り添いました。これは『斜陽』の一節が分かりやすいかもしれません。

お酒をやめて、ご病気をなおして、永生きをなさって立派なお仕事を、などそんな白々しいおざなりみたいなことは、もう私は言いたくないのでございます。
「立派なお仕事」などよりも、いのちを捨てる気で、所謂悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえって御礼を言われるようになるかも知れません。

犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。

引用:『人間失格』(太宰治)

これは退廃的・享楽的な生活を送る小説家に向けられた言葉。
「悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえって御礼を言われる」というのは、彼の実態に近いと思います。

彼は「他者に対して自分に何が出来るのか」の答えの1つに「小説によって自己を曝け出すこと」を選びました。

あるいは日陰者、弱い者としての自己をです。そして太宰は自分の為でなく他の為にと明確に意識してこのような自己を主張しようとしたのです。

引用:『太宰治論』(著:奥野健男/出版:新潮社)29pより引用

『人間失格』で描いたような複雑で繊細で、かつ正直な「自己」は同じような思いを抱えながらもそれを表に出せない人たちに、共感を与えました。

また、「道徳の過渡期」という言葉がありましたが、この頃は第二次世界大戦の直後で「これまで正しいとされていたもの」の価値観が大きく揺らいだ時期でもあります。「何が正しいのかわからない」からこそ「既存の道徳に抗う」という問題提起の役割も担っていると思います。

真っ当な思考や正論……「そんなワガママが通るわけない」という社会性フィルターの奥にある感情です。本当は助けを求めたくても「そんなの甘えだ」というフィルターがかかって「大丈夫」と言ってしまったり。「ありのまま愛してほしい」が本音だけど、そんなの通らないから求められるものを演じたり。

正論だからこそ、本当の想いは私たち自身が端から棄却している。私たちの「ワガママ」って、理性や社会性によって「初めからなかったこと」にされがちですが、「本当の本当の弱い心」は奥底に眠っていて。文学はそれに触れてくれる役割があります。

そして世の中にはその「弱い心」を隠せる人もいれば、前面に出てしまう人もいる。

「間違って生きざるを得ない人」「間違っていると分かっていても堕ちてしまう人」「あえて間違って生きたい人」「外的要因によって間違ってしまった人」……私は、この人たちもこの世界で生きていていいと考えます。

太宰はこういった人々を素直に描く作品が多数あり、例えば『ヴィヨンの妻』ではこんな一節があります。

さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。

(中略)

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」

引用:『人間失格』(太宰治)

ここで言う「人非人」とは、要は人でなしのこと。非道徳で社会から糾弾されるべき存在のことです。『ヴィヨンの妻』はとある夫婦が中心となるお話なのですが、この夫が人でなしなんです。

しかし自らを「人でなしではない」と言い張る夫に対して言った台詞がこれです。
妻は、夫のせいで理不尽な目に遭いながらも前向きに生活を全うする人物。でもきっと「全く屈辱的じゃない」なんてことは、ないんじゃないかなと思うんです。
この「生きてさえいればいい」というのは、おそらく自分に向けた言葉でもある。だから「私たち」なんです。

世の中には理不尽に耐え、惨めでも、屈辱的でも頑張る人たちがいる。まともな人間扱いをしてほしいとどこかで願いながらも、惨い現実で這いつくばる人がいる。
この「人非人でもいいじゃないの」という言葉は、そういった人たちの人生をも肯定する。「人間失格者」に寄り添う文学というのは、堕落や退廃を肯定するのみではないんです。

例えば三島由紀夫は太宰治を「治りたがらない病人」と評しましたが、まさにその通りかもしれません。
でも「病人のままでいたい」と思う人がいたっていいんです。

「弱いのに頑張っている人」「弱さに堕ちてしまった人」「弱くならざるを得ない人」「弱いと開き直る人」「弱いままでいたい人」

そういった全ての弱い人に刺さる文章が数多く散りばめられているからこそ、この作品は読まれ続けるんだと思います。

きっと、この作品の態度が受け入れられない人も沢山いるでしょう。
でも、「現実で受け入れられない価値観」だからこそ価値がある。皆が目指すべき道徳に従うばかりが作品ではありません。

先ほど、この物語のラストは「残酷」だと私は言いました。でも、もしこの言葉が「全ての人間失格者」に向けられた言葉だとしたら……きっと、救われる人もいるはずなんです。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

引用:『人間失格』(太宰治)

人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ

引用:『ヴィヨンの妻』(太宰治)

「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。
参考文献

『人間失格』(著:太宰治/出版:新潮社)
『人間失格/グッド・バイ 他一篇』(著:太宰治/出版:岩波書店)
『太宰治論』(著:奥野健男/出版:新潮社)
『太宰治の年譜』(著:山内祥史/出版:大修館書店)
『失格でもいいじゃないの 太宰治の罪と愛』(著:千葉一幹/出版:講談社)
『直筆で読む「人間失格」』(著:太宰治/発行:大谷和之/集英社)

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この記事を書いた人

文学や漫画など、好きな作品を独自に語ります。YouTubeにて『語りたがりのゆかりさん』シリーズ更新中。

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