「美人は性格が悪い」
「天才はコミュニケーションが取れない」
「成功者は家庭を犠牲にしている」
人は「善いモノ」に対して「悪い部分もあってくれ」と平衡を願い、こういった偏見や誤謬を信じてしまうそうです。
しかしながら「欠点が一切ないもの」を不気味に感じるのは、ある意味仕方ないのかもしれません。
その極地。ある人は、人々を心酔させる桜の美しさに「源泉」を見出しました。
そう。櫻の樹の下には――
ストーリー解説「櫻の樹の下には」
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。本文:『櫻の樹の下には』(著:梶井基次郎)より引用
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」……この書き出しが素晴らしいですよね。改めて見ると衝撃的な一文。ここだけみんなの印象に残り続けるのも納得というか。
さて、彼(彼とします)は桜の美しさを見て不安を覚えていたと言います。
ここが作品の肝です。なぜ彼は桜の美しさが信じられず、不安に駆られるのか。そしてなぜ「屍体が埋まっている」という結論に辿りついたのか。
「桜の美しさ」は信じられないのに、「屍体が埋まっていること」は信じていいという、一見矛盾を孕むような対比構造が美しい。
ちなみにこれは作品のために設定した思想ではなく、梶井本人が兼ねてから友人にこう話しており、その発想を褒められることもしばしばありました。
どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。
本文:『櫻の樹の下には』(著:梶井基次郎)より引用
急に文章が難しくなりましたね。ただ、何か不穏な印象は受けます。
重要なのは「安全剃刀」という単語。
そして「よりによってちっぽけな薄っぺらいもの」という表現……これは『檸檬』に類似性を見出だせます。


『檸檬』では、主人公が終始語っていた憂鬱が檸檬によって和らげられるのですが、作中ではその檸檬を「ごくありふれている」「そんなものの一顆」と、客観的に見た時にそれが大したことないものだと描写されています。そのアンバランスさを「あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった」と表現するのです。
あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。
本文:『檸檬』(著:梶井基次郎)より引用
ここも剃刀ではなく、わざわざ「安全剃刀」と描写してるので、「刃物の中でも殺傷性が極めて低いもの」として用いている。でもそんなものが自分に不穏な刃を向けてくる、というアンバランスさです。
彼は「桜の美しさ」の源泉に「屍体」を見出しています。つまり「美」と「死」の対比。
ここも「安全」と「危険」の対比です。
実は現在読める『櫻の樹の下には』は、初出の原稿から終盤の文章がカットされているのですが、そこでは「剃刀の刃が、空を翔ぶ蝮のように、俺の頚動脈へかみついてくるのは何時だろう。」と記されていました。
この構想を踏まえると、やはり安全剃刀は「自分の命を狙う危険なもの」として描写されているはずなんです。
では、その桜の美しさについてもう少し深掘りましょう。続きを読んでいきます。
いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。
それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。
それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。
俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。
俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。本文:『櫻の樹の下には』(著:梶井基次郎)より引用
彼は桜に神秘な雰囲気を放つ美しさを感じたものの「俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。」と言い、不安・憂鬱・空虚な気持ちに襲われます。植物が最も成熟した段階に神秘的な美しさを認めながらも、その「不思議な生命力」を恐れます。
ここで重要なのは「不思議な」という部分。
これは言い換えると「理由が分からない」ということ。どうしてここまで美しく、力強くなるのか。理由が一切不明なんです。
ここから推測できるのは「何の理由もなく、ただ美しいものなんてありえない」という前提・価値観です。
ただ、本記事ではもう少し作者の価値観に迫りたい。それを紐解くため、続きを読んでいきましょう。
おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。
何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。
それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。
俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。本文:『櫻の樹の下には』(著:梶井基次郎)より引用
冒頭で放った「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」という彼の見解を、具体的に描写したシーンですね。
屍体が腐敗する猛烈なおどろおどろしさを木の根っこから吸い上げることで、あんなにも美しく力強い生命になるのだと。それが分かった今は、桜を直視できるようになったと言います。
さて、いよいよ「なぜ屍体を見出す必要があったのか」という核心に触れていきます。続きを読みましょう。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」の意味
二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。
水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。
おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰わした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。
思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。
隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。
俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。
俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。本文:『櫻の樹の下には』(著:梶井基次郎)より引用
ここが核心。桜と屍体の関連性を、別の出来事に喩えているパートです。
彼は渓谷で大量のウスバカゲロウとその死骸に出会い、交尾と産卵の末に死んでいく彼らに、重要な結論を見出します。
「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る」という結論。
「憂鬱に乾いている」というのは、この世界は普通に生きていたら「理由もなく良いもの」で溢れているからだと、私は推察します。
「理由もなく良いもの」で溢れてるなら、本来は喜ばしいこと。
しかし梶井は20代から肺の病気を患い、その症状は年々悪化し、彼は31歳の若さでこの世を去りました。この境遇は「理由もなく訪れた不幸」であり、彼はその運命によって常に死の影に付きまとわれ、重度の神経衰弱に陥ります。
だからこそ彼にとって人生とは「絶望を生きること」
人によってその内容は違えど、絶望という負の側面があるからこそ、生命という正の存在が成り立ち、平衡が取れる。
でも世界には理由もなく良いもの……もしくは「負の側面が見えないもの」が存在する。
渓谷にいる鳥や若芽は、美しく生き生きとしているだけで「負の側面」が見えない。だから彼を喜ばすものがなく、「そういう存在」を見て不安に駆られる。
世界には私に見える惨劇・絶望・憂鬱が少ない。言うなれば、ただただ美しい「理不尽な美」にあふれている。
その理不尽の極地が、主人公にとっては桜だったのです。とびきり美しく生命力に溢れ、人々を魅了する桜。
その美しさに何の理由もなかったとしたら、こんなに恐ろしいことはない。
だから彼は「平衡」を求めて、桜の美しさの源泉に「屍体がある」と透視した。
これで彼にとっては、理不尽な美が腑に落ちるわけです。これを踏まえた上で、先ほどの本文をもう一度読みましょう。
この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。
俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。
俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。本文:『櫻の樹の下には』(著:梶井基次郎)より引用
彼は「理由なき良きもの」に対して、惨劇という平衡を求め、自身の憂鬱を完成させる。
それが自身の背負う絶望に共感しうるものであるから。
また、梶井の親友である中谷孝雄は、彼との思い出を振り返った『梶井基次郎のこと』でこう綴っています。
彼にいわせると、神経衰弱でないとある種の美は絶対に掴めないというのであったが、因果な話であった。
本文:『現代日本文学大系63 梶井基次郎 外村繁 中島敦集』368pより引用
「神経衰弱でないとある種の美は絶対に掴めない」
この発言には背景が色々とあるのですが、平衡を求める彼の感覚に近づくものだと思います。
ちなみに梶井は晩年、病状が悪化したために湯ヶ島温泉に療養へ行くのですが、ここで彼の心境と作品に変化が起こります。親友の中谷孝雄は当時の様子をこう語ります。
「檸檬」から「冬の日」へかけての梶井は、どんなに倦怠で憂鬱ななかに在っても、決して日向性を失っていなかった。
ところが今や梶井は光明と希望とに背を向けて「絶望に駆られた情熱、闇への情熱」を燃やすようになったのである。本文:『現代日本文学大系63 梶井基次郎 外村繁 中島敦集』372pより引用
例えば、その時代に書かれた代表作『冬の蠅』では、生命を育む象徴である太陽の恩恵を「欺瞞」とみなし、強く憎む主人公が描かれます。
またこの頃、闇の中へ消えていく男を描写した『蒼穹』を発表するのですが、元々想定していたタイトルは『闇』だったそうです。
彼は病気と死を背におぶりながら、”不吉な塊”と共に人生を歩んだ。しかしそれに耐えきれなくなった結果「絶望と闇への情熱」を燃やし、それを作品に反映させたと言います。
当時の草稿・メモから『櫻の樹の下には』は、『冬の蠅』と同時期に書き始められたことが分かります。つまり本作も、そういった情熱が根底に存在するのです。
一応補足しますと、梶井本人は湯ヶ島時代の精神状態を反省しており「やはり人間というものはやけくそではいけない」「絶望しながら生きるということは結局僕にはできない」と、ここから亡くなるまでにかけて、人生との向き合い方は変わっていきました。
その結果書かれた『のんきな患者』は、当時批評家からあまりウケが良くなかったようですが。
では、作品に戻ります。最後の文章を読んでいきましょう。
――おまえは腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。
べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。
最後の「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という台詞は、冒頭と同じように見えますが、冒頭では「これは信じていいことなんだよ」と続き、相手に語りかける口調になっています。
でもここは、どちらかというと「自身が感動を味わっている」という描写。
不安という神秘から解放された喜び。「自分も受け入れられる美しさ」だと解釈できた喜び。
そして「酒宴をひらいている村人たちと同じ権利」という表現。
自分の憂鬱とは反対に、桜の美しさを「そのまま享受できる人々」と同じ権利を得た。
でもそれは「花を見る権利」であって、彼らは桜の下に埋まっている屍体を想像しているわけじゃない。
「美しいものをそのまま受け入れる」という姿勢は同じではないが、「同じように桜を見る権利は得た」と。
ちなみに、桜に恐ろしさを見出したのは梶井だけではなく、例えば坂口安吾の『桜の森の満開の下』では、桜によって狂気に魅入られてしまう人々が描かれます。
人を殺し追い剥ぎをする野蛮な山賊が、満開の桜の木の下を通ることだけは妙に恐れる。絶対的な孤独と虚無に襲われ、気がおかしくなるのです。
「美しい花には棘がある」なんて言葉もありますが、ここまで日本人を惹きつける桜には、何かを秘めた魅力があるのかもしれませんね。
『梶井基次郎全集』(著:梶井基次郎/出版:筑摩書房)
『梶井基次郎全集 第二巻』(著:梶井基次郎/発行:筑摩書房)
『梶井基次郎全集 第三巻』(著:梶井基次郎/発行:筑摩書房)
『梶井基次郎全集 第四巻』(著:梶井基次郎/発行:筑摩書房)
『現代日本文学大系63 梶井基次郎 外村繁 中島敦集』(発行:筑摩書房)









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