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嘘つきは、誰だ。『藪の中』(芥川龍之介)のストーリーを徹底解説

藪の中 アイキャッチ

今回は芥川龍之介の『藪の中』を語ります。舞台はとある殺人事件。そこで語られる7人の証言者の言葉が、それぞれ矛盾するという物語。しかも「自分が犯人だ」と供述する者が3人もいる。

この不気味さを紐解いてたどり着くのは、果たしてミステリー的な結末なのか。

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目次

事件調査1 関係者4名の証言

本作の時代設定は平安時代です。作中では、とある殺人事件について7名の証言者の視点が語られます。まずは死体の第一発見者となった木こりの証言から見ていきましょう。

検非違使に問われたる木樵りの物語

さようでございます。あの死骸を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝いつもの通り、裏山の杉を伐りに参りました。すると山陰の藪の中に、あの死骸があったのでございます。

それは山科の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩せ杉の交った、人気のない所でございます。死骸は縹の水干に、都風のさび烏帽子をかぶったまま、仰向けに倒れて居りました。何しろ一刀とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳に滲みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。

太刀か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛が一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。

が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか?あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

事件が起きたであろう場所は、人気のない山の藪の中。被害者は烏帽子を被った男で、服装から都に住んでいる者だと推測されます。

外傷は胸の刺し傷が1つ。血の渇き方から見て、事件からはある程度時間が経っていたようです。死体の周りには縄と櫛が落ちており、周囲には踏み荒らされたような形跡がありました。

続いて、事件前日に被害者を見かけたという旅法師の証言です。

検非違使に問われたる旅法師の物語

あの死骸の男には、確かに昨日遇って居ります。昨日の、――さあ、午頃でございましょう。場所は関山から山科へ、参ろうと云う途中でございます。

あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重ねらしい、衣の色ばかりでございます。

男は、――いえ、太刀も帯びて居れば、弓矢も携えて居りました。殊に黒い塗り箙へ、二十あまり征矢をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

旅法師によると、被害者の男は前日に女と一緒に馬に乗っていたといいます。どうやら山科(京都市)から関山(滋賀県)の方へ向かおうとしていたようです。女の様子は垂れ衣でよく見えず、馬の特徴も曖昧なまま。そして男は太刀と20本以上の弓矢を携えていた、と証言します。

現場に落ちていたのは縄と櫛だけ。太刀や弓矢は、奪われたということなのでしょうか。それを裏付けるように、次は犯人と思しき男を捕まえた放免(警察の下働き)の証言が続きます。

検非違使に問われたる放免の物語

わたしが搦め取った男でございますか? これは確かに多襄丸と云う、名高い盗人でございます。もっともわたしが搦め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口の石橋の上に、うんうん呻って居りました。

時刻でございますか? 時刻は昨夜の初更頃でございます。いつぞやわたしが捉え損じた時にも、やはりこの紺の水干に、打出しの太刀を佩いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革を巻いた弓、黒塗りの箙、鷹の羽の征矢が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。

この多襄丸と云うやつは、洛中に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

犯人として捕まったのは、有名な盗人・多襄丸。馬から落ちていたところを捕まったといい、持ち物は紺の水干(服)、太刀、弓、弓入れ、17本の弓矢でした。現場から消えていたものと符合するように見えますが、弓矢は旅法師の証言より少し数が減っています。

もっとも、旅法師の証言自体、事件が起きるとは思わずに男をたまたま見かけただけの記憶です。日本を代表する推理小説作家・江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』には、こんなエピソードが登場します。法律家や心理学者、物理学者が集まる会にピエロと男が乱入し、退場した後で「その男の特徴」を尋ねたところ――

頭に何も冠っていなかったことを云い当てたのは、四十人の内でたった四人切りで、外の人達は山高帽子を冠っていたと書いたものもあれば、シルクハットだったと書くものもあるという有様だった。着物についても、ある者は赤だといい、あるものは茶色だといい、ある者は縞だといい、あるものはコーヒ色だといい、其他種々様々の色合が彼の為に説明せられた。ところが、黒人は実際は、白ズボンに黒の上衣を着て、大きな赤のネクタイを結んでいたのだ。

本文:『D坂の殺人事件』(著:江戸川乱歩/青空文庫)より引用

このエピソードは、心理学者ヒューゴー・ミュンスターベルクの実験がもとになっています。意識して覚えたのではなく偶然見ただけの記憶は、それだけ不正確になりうるということです。だからこそ、旅法師の証言する「20本」という数字が本当に正しいかは怪しいところがあります。

また、放免の証言にある「いつぞやわたしが捉え損じた時にも、やはりこの紺の水干に、打出しの太刀を佩いて居りました」という一言に注目すると、この太刀はそもそも多襄丸が元から持っていたものだとわかります。つまり、現場から消えた太刀の行方は、まだ解けていません。

続いて、被害者と一緒にいたという女の母親の証言です。

検非違使に問われたる媼の物語

はい、あの死骸は手前の娘が、片附いた男でございます。が、都のものではございません。若狭の国府の侍でございます。名は金沢の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立てでございますから、遺恨なぞ受ける筈はございません。

娘でございますか? 娘の名は真砂、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。

武弘は昨日娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

ここで、男女の名前が明らかになります。男は武弘という若狭(現在の福井県)の国府の侍。国府とは、政治や仕事を行う地方の役所のことで、その役所に勤める人物だったということです。

「都風の」といっても、京都の人ではなかったわけです。女は真砂という名前で、武弘とは夫婦の関係。「片附く」は深い仲になる、つまり夫婦になったという意味です。2人は一緒に若狭へ向かおうとしていたようで、旅法師の証言と合わせると「山科→関山→若狭」というルートが見えてきます。

真砂の母によれば、武弘は優しい性格で、恨まれて殺される理由はないだろうとのこと。そして証言の内容を踏まえると、どうやら真砂は行方不明になっているようです。

ここまでが、事件の関係者4人の証言でした。ここからは、事件の当事者である3人自身の話を聞いていきましょう。

事件調査2 当事者3名の自白

一旦、この3名の証言をそのまま信じるという前提で、供述を整理していきます。まずは犯人として捕まった強盗・多襄丸の供述です。多襄丸の目的は真砂を奪うことにあり、最初から武弘を殺すつもりはなかったといいます。

彼は「この先に金目のものがたくさんあるから安値で譲ろう」と嘘をつき、人目のつかない藪の中に武弘を誘い出しました。そして武弘を縄で縛り、いくらかの格闘の末、真砂を手籠めにします。

多襄丸の白状

あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。

わたしは昨日の午少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子に、牟子の垂絹が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩のように見えたのです。わたしはその咄嗟の間に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。

しかし男を殺すにしても、卑怯な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。

わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか?

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

多襄丸は、男を殺したのは自分だと白状します。彼は当初の目的どおり真砂を手籠めにしましたが、そのあとで彼女からこう告げられます。

「二人の男に恥を見られるのは死ぬより辛い。戦って生き残った方についていく」と。この真に迫る姿を見て、多襄丸は「武弘を殺して真砂を妻にする」と決心し、正々堂々戦った末に男を殺した。

しかしその隙に女は逃げていった――という供述です。ちなみに「二十三合目に、相手の胸を貫きました」というのは、刀同士が22回ぶつかりあった末、23回目でようやく刺したという意味です。

全体的に「武勇伝アピール」めいた印象は拭えませんが、一応筋は通っています。武弘の太刀と弓矢を奪ったものの太刀は途中で手放し、現場に落ちていた縄も多襄丸が使ったもの。消えた太刀の謎はここで解けますが、弓矢が減っていた謎だけは残ったままです。

続いて、多襄丸に襲われた真砂本人の供述です。彼女は手籠めにされたあと、夫・武弘の冷たい視線を感じたといいます。

清水寺に来れる女の懺悔

わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚りました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?

わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」

夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

真砂は、自分の恥辱を見られただけでなく、夫からそれを軽蔑され、憎しみの眼を向けられたと感じました。それを受けて心中を図ろうとしたところ、武弘も「殺せ」と同意し、足元に落ちていた小刀で夫の胸を刺したといいます。

もちろんその後自分も後を追うつもりでしたが、勇気がなかったのか運が悪かったのか、生き延びてしまう。結果、強盗に襲われ、夫を殺した妻として、その罪悪感と絶望から清水寺に駆け込んで陳情している――という供述です。

多襄丸の話とはまったく違うストーリーです。部分的に食い違うのではなく、シナリオそのものが丸ごと書き換えられている。もしこれが嘘だとして、なぜ「自分がやったこと」にしたのでしょうか。
多襄丸に殺されたことにしておけば、彼女は「悲劇のヒロイン」として同情を集める立場になれたはずです。嘘をつくメリットはどこにあるのか。

おそらく重要なのは「自分が殺した」という事実そのものより、「憎しみや軽蔑の眼を向けられた」ことなのだと思います。夫を奪われた不幸の上に、夫から拒絶された不幸が重なることで、彼女の不幸と絶望は最大化する。心中を図ったという筋書きは、その説得力をさらに強めます。

真砂の母は彼女を「男にも劣らぬくらい、勝気の女」と評し、多襄丸もまた「あのくらい気性の烈しい女は、一人も見た事がない」と語っていました。かなりプライドの高い人物だったのかもしれません。強盗に辱められ、その姿を見た夫からは軽蔑される。

このままでは、彼女は「すべてを奪われた完全な被害者」でしかありません。だからこそ、せめて一つくらいは自分の手で選び取りたかった。「完全な被害者」でいる方が都合が良いはずなのに、あえて不幸を最大化させたうえで「奪う側」に回るための嘘、とも解釈できます。多襄丸と同じく、罪の重さよりも「どう見られるか」の方が、彼女にとっては重要だったのでしょう。

最後は、被害者である武弘自身の証言です。すでに亡くなっているため、イタコによる降霊というかたちで語られます。物語の性質上、それによって信憑性が損なわれるわけではありません。

巫女の口を借りたる死霊の物語

――盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利けない。体も杉の根に縛られている。が、おれはその間に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬ましさに身悶えをした。

盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? 妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」

妻の罪はそれだけではない。妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。

妻はおれがためらう内に、何か一声叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟に飛びかかったが、これは袖さえ捉えなかったらしい。盗人は妻が逃げ去った後、太刀や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄を切った。

おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。(中略)その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢れて来る。おれはそれぎり永久に、中有の闇へ沈んでしまった。

本文:『藪の中』(著:芥川龍之介/青空文庫)より引用

武弘は、真砂に対して「この男の言うことを真に受けるな」という意味で強く目配せを送り続けました。それにもかかわらず、真砂は妻になることを了承しただけでなく、「あの人(武弘)を殺してください」とまで多襄丸に訴えます。

これには多襄丸もドン引きし、哀れみからか武弘に真砂の生死を委ねますが、迷っている間に彼女は逃げ出し、多襄丸もどこかへ姿を消しました。これ以上ない屈辱と絶望を味わった武弘は、誰もいなくなった後、妻が落とした小刀で自ら胸を刺した。しかしその後に、誰かがその小刀を抜いた――というところで、証言は終わります。

3人の証言はストーリーがまったく違います。死因さえ「他殺」「自害」で食い違う。もっとも、これが嘘だとすれば筋は通っています。戦って負けたことを隠せるうえ、妻からも裏切られた「完全な被害者」になれるからです。

そして、これで7人分の証言はすべて出そろい、物語もここで幕を閉じます。

『藪の中』の真相について

これまでに語られた7人の証言には、辻褄の合わない部分が多々あります。

これらを整合させる、たった1つの真相は――当然、存在しません。

『藪の中』の真相は長らく議論され続けていますが、いまだその解は出ていません。もちろん、補完できるエピソードを創作したり、特定の人物を完全な嘘つきと決めつけたりすれば、表面上の整合性は取れます。納得できるかどうかは、また別の話ですが。作中で明言されないうえに、証言者たちの言葉が矛盾しまくっているのですから、当然といえば当然でしょう。

でも、これではミステリーとしてどうなのか。そう思う方もいるかもしれません。しかし私は、この作品をそもそも「謎を解く物語」だとは考えていません。ジャンルとしてはそう分類されても「謎解き」や「推理」が本作の醍醐味ではないと思うのです。

この物語で重要なのは、事件の当事者3名がついている「嘘」の内容そのものです。いわゆるミステリーとは、少し毛色が違います。普通、嘘をつくのは「自分は犯人ではない」と罪から逃れるためです。

ところが本作の証言者は、全員が「自分が犯人だ」と主張している。多襄丸に至っては「極刑にしてください」とまで言う。特に多襄丸と真砂は、もし自分がやっていないのなら、わざわざ犯人だと主張する必要は一切ありません

つまりこの作品は「誰が殺したか」を解き明かすものではなく、「なぜこんな嘘をつくのか」について考えるための物語なのだと、私は解釈しています。

原典と類似文学

ここで、本作の文学的な背景に触れておきましょう。『藪の中』は『今昔物語』の「具妻行丹波国男於大江山被縛語」を原典としています。原典でも登場人物は夫・妻・強盗の3名。強盗は夫を口八丁に騙し、目の前で妻を襲い、ことが済むと馬を奪って逃げていきます。殺人事件ではありません。

芥川は、この原典に夫の死という要素を加え、かつ「当事者たちの矛盾する証言」を物語の中心に据えました。この「プラスした要素」こそが、作者が本当にやりたかったことだと解釈できます。

ちなみに、こうして元ネタとなる話を再構築した小説を「翻案小説」と呼びます。太宰治の『走れメロス』(原典:シラーの詩『人質』)や『駈込み訴え』、森鴎外の『山椒大夫』(原典:『さんせう太夫』)、中島敦の『山月記』(原典:『人虎伝』)なども、これにあたります。

また、『藪の中』の形式は、海外文学の『指輪と本』(ロバート・ブラウニング)や『月明かりの道』(アンブローズ・ビアス)などに影響を受けていると言われています。『指輪と本』では1つの事件を、立場や利害の異なる複数の人物に語らせています。『月明かりの道』では、霊媒師を通じて死者の証言が描かれる。

形式としてはよく似ていますが、これらはどちらも「証言を積み重ねた先に、読者に真相を提示する」構造を取っています。誰がどんな意図でどんな嘘をつき、あるいは勘違いしているのかが、最終的にはわかるようになっている。ところが『藪の中』には、それがありません。

この差分を考えていくと、『藪の中』で意図的に強調されているのは「当事者たちの証言が意味不明な形で矛盾すること」、そして「その矛盾が一切明かされないこと」の2点だとわかります。

まず「意味不明な矛盾」について。仮にこの中の誰かが嘘をついているとすれば、多襄丸は「本当はもっと卑怯な手で殺していた」のかもしれません。証言の中でずっと「正々堂々と戦った」ことを強調していたのも、その裏返しと見ることができます。

武弘であれば「戦って負けたことにしたくなかった」からこそ、自分で命を絶ったことにしたかった、とも考えられる。わざわざ「自分が犯人だ」と主張するからには、その後に受けるであろう罰に見合うだけの何か――「見栄」や「プライド」――を守るためだと考えるのが自然でしょう。

真相は藪の中

さらに踏み込めば、これらの嘘は果たして「意識的に」ついたものなのでしょうか。私はむしろ、違うのではないかと思っています。彼らが語る嘘や矛盾もまた、ある意味では「人間的な真実」なのです。人間はそれぞれ異なる感情、思想、背景を持ち、個別に備わった「主観フィルター」を通じてこの世界を認識しています。

『藪の中』の場合は「虚栄心・利己主義・エゴイズム」というフィルターを通した、各々の真実がそのまま描かれているのではないでしょうか。この作品の面白さは、「生命の保護よりも自尊心の保護を優先する」という描写そのものにあると私は思います。

「人間は見栄のためにいくらでも嘘をつく生き物だ」というよりも、「自尊心やエゴイズムが高じると、人は無意識のうちに真実さえ捏造してしまう」という恐ろしさを描いた作品――人間の弱さ、醜さをテーマにするあたりは、いかにも芥川らしいと感じます。

そしてもう1つ、「真相が明かされない」という点。これがあることで、読者は異様な気持ち悪さを覚えます。その気持ち悪さの度合いは、そのまま「人間の恐ろしさ」に直結する。誰がどういう意図で、誤解で、思惑で、思い込みで、感情でこんな発言をしたのかはわからない。

どこまで行っても、真相は「藪の中」。種明かしをしないことによって、描きたかった「人間の不気味さ」は無限に広がっていくのです。

物語をより客観的に捉えるなら、「人間的な真実」は人の数だけ存在し、それらは「客観的な事実」とは異なるということになります。この事件における「事実」は、ただ一つ「武弘という男の死体が藪の中で見つかった」ということだけ。そして「人間的な真実」は、少なくとも3つ存在する。

私たちも、誰かの主観的な発言だけを根拠に物事を追及する際は、それを盲信しないよう注意しなければなりません。この世界の人々が語る「真実」は、いったい誰にとっての真実なのでしょうか。

わたしが搦め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人でございます――。馬の通う路から隔たった藪の中、胸もとを刺された男の死骸が見つかった。殺したのは誰なのか。
参考文献

『芥川龍之介論集成第2巻 地獄変 歴史・王朝物の世界』(編:海老井英次/出版:翰林書房)
『芥川龍之介全集 第八巻』(著:芥川龍之介/出版:岩波書店)
『地獄変・邪宗門・好色・藪の中 他七篇』(著:芥川龍之介/出版:岩波書店)
『D坂の殺人事件』(著:江戸川乱歩/青空文庫)

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この記事を書いた人

文学や漫画など、好きな作品を独自に語ります。YouTubeにて『語りたがりのゆかりさん』シリーズ更新中。

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