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『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』解説|AI時代に問う人間の定義

今回は、私が愛する海外SFの巨塔、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を語ってまいります。

この作品はその秀逸なタイトルゆえ、現在まで様々なオマージュをされてきました。
「〇〇は〇〇の夢を見るか?」というフレーズだけは聞いたことがある、という方も多いのではないでしょうか。

本作のテーマはズバリ「人間とは何か?」です。アンドロイドを討伐する主人公が、様々な人物と出会うことで「人間とアンドロイドの境目」に疑問を持つという大筋になっています。

ストーリー紹介 狩る者と守る者の交錯

まずは、本作のあらすじをご紹介しましょう。

舞台は第三次世界大戦(最終大戦)後のアメリカです。大戦後、地球には「死の灰」が降り注ぎ、人間や生き物が暮らすための環境が著しく悪化していました。そのため人類の殆どは火星に移住しており、地球に残っているのは「個人的な事情や地球への愛着によって自ら残っている者」と「適性検査に合格できず火星に住む権利を与えられない者」だけです。

作中では、火星に移住できる者を「適格者(レギュラー)」、権利を与えられない者を「特殊者(スペシャル)」と呼ばびます。

本作の主人公であるリック・デッカードは、自らの意志で地球に住み続けるレギュラー。定住の理由は、彼の職業にありました。

彼の職業は、火星からの逃亡アンドロイドを討伐する「賞金稼ぎ(バウンティハンター)」です。

この世界では火星への移住が推奨されており、移住者には希望のアンドロイドが国連から無料で貸与されます。アンドロイドたちは実質的に召使いや奴隷として働いていますが、中にはそういった扱いに嫌気がさし、支配から逃れるために火星を脱出する者がいるのです。彼らは「賞金首」となり、莫大な懸賞金が掛けられます。

デッカードはサンフランシスコ警察署の職員ですが基本給はかなり低く、アンドロイドを狩れないことには生活が苦しいのが現状です。

そして彼には夢があり、それにはどうしてもお金が必要でした。
その夢とは、「本物の羊(動物)を飼うこと」です。

「死の灰」によって生き物の維持が困難になったこの世界では、動物の価値が跳ね上がり、動物を飼うことが一種の社会ステータスになっています。

しかし、リックの給料では本物は買えません。だから彼は、見た目には判別がつかないほど精巧な機械仕掛けの羊「電気羊」を飼い、周囲に見栄を張っているのです。

リック自身は電気羊しか飼えないことに劣等感を抱き続け、本物の羊や牛・馬といった高価で希少な動物を飼いたいと切望しています。

そんな折、彼に好機が訪れます。
火星から逃亡してきた「ネクサス6型」という新型アンドロイド6体を討伐せよとの依頼です

動物を手に入れるためアンドロイドを討伐しようと決めたデッカード。彼の物語はここから展開していきます。

そして本作にはもう1人の主人公格、ジョン・イジドアが登場します。彼は精神機能テストに合格できなかった「特殊者(スペシャル)」であり、「ピンボケ」の烙印を押された人物です。

イジドアは動物ロボットの修理を行う動物病院の運転手として働き、既に荒廃し誰も住んでいないビルでひっそりと暮らしていました。
そんな折、例の逃亡アンドロイドが3名、このビルに逃げ込んできます。孤独で優しいイジドアはアンドロイドを守ろうと決意し、バウンティハンターから匿うことにしました。

アンドロイドを狩るデッカードと、アンドロイドを守るイジドア。
この対照的な2つの視点から物語は進展していきます。

また、この世界を語る上で欠かせないのが「マーサー教」と「情調(ムード)オルガン」という設定。

マーサー教は「人々の繋がり」を重要視し、地球に残された孤独な人々を「共同体」として認識させます。
「共感ボックス(エンパシー・ボックス)」というアイテムにより、教祖マーサーが石を投げつけられる苦行を感覚的に共有することが日常。痛みを分かち合うことにより孤独から解放され、連帯感を得る。
これが人々の精神的基盤となっています。

一方の「情調(ムード)オルガン」は、ダイヤルを指定するだけで自分の好きな気分になれる装置です。荒廃した世界で人間として適切な感情を維持するために機械に頼って生きています。

あらすじは一旦ここまで。続いては本作の構造を深堀ってまいります。

構造解釈 “人間らしさ”という幻影

この物語はアンドロイドを狩る側であるデッカードと、アンドロイドを守る側であるイジドア、2つの視点から進展していきます。
2人の視点から描かれるのは「人間とは何か」そして「人間性とは何か」という大きなテーマです。

まずデッカードの視点から。この世界では、見た目が人間そっくりな逃亡アンドロイドを見抜くため「人間特有の性質」に目が向けられています。

それは「他者(人間以外も含む)に感情移入ができること」です。

作中ではアンドロイドを「他者に対する共感性が欠落し、感情移入が出来ない存在」だとみなし、反対に人間は「他者に共感・感情移入が出来る存在」だとされています。

そこで、作中では「アンドロイドか人間か」を見分ける方法として、肉体的・精神的な反応を確かめる「フォークト=カンプフ検査」が設けられています。

この検査では相手の感情を揺さぶるような質問をし、そこでどのような反応をするか確かめます。その反応を検査した上で「人間かアンドロイドか」を判定するのです。
しかしデッカードの認識は「ネクサス6型」という新型の高性能アンドロイドと対峙することで次第に揺れはじめます。

例えばレイチェル・ローゼンというアンドロイド。彼女はアンドロイドでありながら人間としての記憶を高度にプログラムされ、自身を人間だと認識して生活していました。かつ非常に知能が高いうえに感情的にモノを考えられるため、作中では愛情や嫉妬のように取れる言動があります。

他にもルーバ・ラフトというアンドロイドはオペラ歌手として活動しており、デッカードが感動するほどの歌唱を披露してみせました。また、自身も芸術鑑賞を楽しんでおり、仕事終わりに美術館へ訪れたりもしていました。

今までの常識が壊されたデッカードは、人間に限りなく近いアンドロイドの存在に激しく動揺します。

特にルーバ・ラフトに関しては、人間だからこそ到達できると思っていた芸術の領域に足を踏み入れたことで、「アンドロイドが創造した芸術を人間が破壊しなければならない」ことがデッカードを苦しめます。

また、別の賞金稼ぎであるフィル・レッシュの立ち居振る舞いもデッカードに疑念を与えます。
彼は人間でありながら冷酷かつ合理的、そして他者への共感性が欠けているのです。
ネクサス6型と対峙しても変わらず「機械を処分する」認識で、一切揺らがずに討伐を続けます。

感情豊かなアンドロイドもいる一方で、冷酷無比な人間もいる。
じゃあ「感情(に見えるもの)」なんて人間を区別する基準にはならないんじゃないか?
ひいては、感情を持つアンドロイドは人間と何が違うというんだ?そんな存在を討伐して、本当に俺は正しいのか?と疑問を持ちはじめるのです。

作中ではこの思考を巡るデッカードの苦悩と葛藤が描かれます。
デッカードは最初「アンドロイドは感情も魂もない機械だ」と信じていたのですが、ネクサス6型によってその考えが揺らぎはじめます。
ただ、これは「感情がある存在を殺したらだめ」なんじゃなくて「深く考えたことで本来の残酷性に気付いた」という構造だと解釈します。


「アンドロイドは感情がないから討伐していい」→「感情があるっぽいからやっぱりダメ」ではなく、
「アンドロイドだから討伐していい」がそもそも相当残酷な思考なんじゃないか?ということにネクサス6型を通じて気付いたという構図です。

そしてもう一人の主人公であるイジドアは作中でも他者への共感性が強い人物で、精神テストで低い数値を出したピンボケでありながら、誰より人間らしいという特徴があります。

そして彼が匿ったアンドロイドたちは、どちらかと言えばアンドロイドらしい性格。
この荒廃した世界では虫も貴重なのですが、イジドアが大切にしていた蜘蛛を「足が多い」と言って躊躇なく引きちぎって遊んだりします。

人間らしいアンドロイド。
アンドロイドらしい人間。
人間らしい人間。
アンドロイドらしいアンドロイド。

これらの登場人物の存在が意味するところ……それは、人間やアンドロイドという枠組みの解体だと思うんです。

様々な思考特性を持つ人間とアンドロイドを登場させることで、作中における「人間とアンドロイドの違い」をより曖昧にしています。

さらに言えば「ムードオルガン」もその複雑さを増す一因です。
「人間は共感や感情移入の生き物」と定義しながら、外付けハードが無ければ感情を上手くコントロール出来ない。最も核である部分を機械に頼っているのです。

そして共感性や繋がりといった「人間らしさ」を実感するために「共感ボックス」が存在する……まるで「自分たちは人間なんだ」と意識的に言い聞かせないと人間であれないみたいに。

ちなみに作者のフィリップ・K・ディックは、こういった「当然に信じられてきたもの」や「人間のアイデンティティ」を崩壊させる作品が多いことで有名です。
それによって現実と空想の境目が曖昧になり、足元が崩れるような感覚を覚える方も多いのですが、その不思議な体験は「ディック感覚」と呼ばれています。

例えば「第二次世界大戦で日本やドイツが勝利した」という設定でありながら「もしアメリカが勝っていたら」という小説が流行する『高い城の男』
ある日、世界を熱狂させるスーパースターの存在がこの世から抹消される『流れよわが涙、と警官は言った』
世界が過去へと逆行しつづける『ユービック』など、現実と虚構を曖昧にさせるような作風が魅力的です。

タイトル解釈 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

それでは最後に、本作のタイトル『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を解釈していきます。
「人間とアンドロイドの違い」にフォーカスした本作において、このタイトルには2つの意味があると解釈します。

1つ目は「寝る時に見る夢」の話。よく、眠る時に羊を数えるって言いますよね。
由来は「Sleep」と「Sheep」が似ているからなど諸説ありますが、それはさておき。ここでは「アンドロイドも人間と同じように羊の夢を見るのだろうか」というニュアンスになります。
人間が羊の夢を見るならば、アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?という疑問です。

2つ目は「目標や願望などの夢」の話。主人公は本物の羊を飼いたいとずっと夢みてましたが、アンドロイドにもそういう感情はあるんだろうか?という疑問。
人間が羊を欲しがるように、アンドロイドは電気羊を欲しがるのだろうか?夢や希望を抱いたりするのだろうか?という意味ですね。

つまり「人間とアンドロイドの境目は何なんだ?」というテーマを非常にお洒落な言い回しに変えたのがこのタイトルだと解釈します。

作中では「人間の定義」を破壊し問い直す構造になっているので、「人間と機械の違い」についての解釈は読み手に委ねられます。
ただ、物語の結末を踏まえると、「人間性を保つということ」にフォーカスが当たっているようにも感じます。

要は「人間であるためにはどうするべきか?」という視点。

そうですね。そしてそれには「どんな対象であれ共感性を持ち、感情移入すること」で可能になる。

色々な価値観の人がいるとは思いますが、自他の境界線がハッキリしていて「1人が好き」「自分は1人で生きる」と思っている人でも、「完全に1人」はやっぱり少し寂しいと思うんです。
誰かに共感したり、同調したり、感情移入したり……そういった欲はきっとあって。めちゃくちゃマイナーで誰にも話せなかった趣味を持っていると、いざ同志に会えた時すごい嬉しかったりしますよね。

これは悪い経験も同様。例えば家庭や学校・職場で嫌な目に遭った過去があると、同じ境遇の人と話したとき異常に盛り上がったりします。

この感覚はまさに、痛みを共有する共感ボックスと一緒。
私はこれを人間の根源的な欲求と捉えています。

また、本作では「非合理性」も人間らしさを象徴していると解釈できます。
例えば「電気羊」に代表されるロボット動物たちは世間体のために飼っている場合が殆どなので、親身になってお世話をしなくてもいいわけです。
しかし時に人間は、電気動物にも愛情を注ぐ。これは単純な見返りやメリットを超えた「そうしたい」「そうするべき」という欲求です。

その意味で、デッカードは自身の「人間性の喪失」に少しずつ恐怖を覚えていきます。
「アンドロイドと人間の境目が分からなくなる」ことは、アンドロイドの立場を考え直すだけでなく、「自分の人間性」を問い直すことにもなるのです。

人はよく「機械が人間に近づくこと」を恐れますが「人間が機械に近づく」方が実は恐ろしいのではないか。

法的に問題がないからと言ってこのままアンドロイドを討伐し続けたら、作中では他にもアンドロイドとの対比がなされているので、「人間性」に関しては色々と解釈できると思います。

ただ、物語を通して私が思うのは「人間とアンドロイドの線引き自体はどうでもいい」という結論です。

アンドロイドから生じるものを全て「偽物」と定義づけたとしても、それに価値や意味が無いわけではありません。
私は「アンドロイドの生み出すものだって本物なんだ」と主張するより、「本物か偽物かは重要ではない」と考えます。

例えばルーバ・ラフトの歌は「アンドロイドだから評価できない」「アンドロイドでも評価できる」ではなくて、「その歌を聞いて感じたもの」を受け止めれば良いと思います。

それは感情においても同じこと。アンドロイドの感情が本物か分からないなら、その感情から波及したものをそのまま感じればいい。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』……このタイトルに指定された主語はきっと「アンドロイド」だけではありません。

その答えは、ぜひ小説を読んで解釈してみてください。

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