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令和の一歩先にあるディストピア『華氏451度』解説

本日は、私の愛する海外文学の名作、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を語ってまいります。

本作はディストピア作品の傑作として知られ、本を持つことや読むことが禁止された未来を描いています。およそ70年前に書かれたSF作品ですが、今もなお読み継がれている一冊です。

あらゆる意見や趣向が可視化され、監視が厳しくなった現代において、”令和の一歩先”のディストピアを紐解いていきましょう。

ストーリー紹介:不快を排除したディストピア

では、本作のあらすじを簡単にご説明しましょう

本作は「本の所有・閲覧」が禁止された未来のお話です。
本の所有を取り締まり、それを見つけ次第燃やし尽くす「昇火士(ファイアマン)」という職業が存在します。

華氏451度は紙が自然発火する温度として知られ、ファイアマンの帽子には焚書の象徴的な数字「451」の文字が刻まれています。

補足

実際の発火温度は華氏451度(摂氏約233度)を含む華氏424度から475度(摂氏約218度から246度)の範囲内にあるとされる。
著者レイ・ブラッドベリ自身は、この数値を地元の消防署に問い合わせて得たと述べており、科学的な正確さよりも、記憶に残りやすく象徴的な響きを持つ数値を文学的装置として採用したと考えられる。

ちなみに、現代でファイアマンは「消防士」を指す言葉ですが、この世界では真逆の意味で使われ「昇火士」と訳されています。普通の家は燃えない加工が施されていて、本来の消防士は必要ないそうです。

主人公はそんなファイアマンの一員であるガイ・モンターグ。30歳の男性です。
モンターグは自身の仕事に誇りを持ち、日々本を燃やし続けていましたが、とある出会いから彼の心境は一変します。

彼が出会ったのはクラリス・マクレランという17歳の少女。
クラリスは最近モンターグの家の隣に引っ越してきた人物で、彼の仕事帰りに声をかけられたのが始まりでした。

クラリスは物事に対して「なぜ?どうして?」という興味を持ち、思考や対話といった知的活動を好みます。
一見普通に見える彼女の特性は、この世界において「異常な思考を持った狂人」とみなされるため、モンターグは風変わりな彼女に興味を抱きます。

どうして物事に疑問を持つ人間が少なくなったのか。これには「この世界の規律や常識」が深く関係します。

まず、本が禁止された理由。これは何も圧政や恐怖政治から「本を読まないように」と国が強要したわけではありません。

例えばディストピアSFの巨塔『1984』では一党独裁による「個人の思考の徹底的な管理・統制」が敷かれていますが、『華氏451度』最大の特徴は「大衆が本の排除を望んだ」という点にあります。

「これはお上のお仕着せじゃない。声明の発表もない、宣言もない、検閲もない、最初からなにもないんだ。引金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。おかげで、いまはみんな夜も昼もしあわせに暮らし、政府お目こぼしのコミックと古き良き告発ものと業界紙を読んでいる」
引用:『華氏451度』(著:レイ・ブラッドベリ 出版:ハヤカワSF文庫)98pより

これは草の根運動、権力者からではなく市民たち自身の声から始まった動きだということです。これは「あらゆる知的活動は”誰か”を傷つけてしまう」という思想から来ています。

ここで、その説明がなされている本文を引用してみましょう。モンターグが所属する昇火士の隊長、ベイティーがこの社会の仕組みを解説するシーンからです。

黒人は『ちびくろサンボ』を好まない。燃やしてしまえ。白人は『アンクル・トムの小屋』をよく思わない。燃やしてしまえ。
誰かが煙草と肺がんの本を書いた?煙草好きが泣いてるって?そんな本は燃やしてしまえ。平穏無事だ、モンターグ。平和だ、モンターグ。
火は明るい。火は清潔だ。
引用:『華氏451度』(著:レイ・ブラッドベリ 出版:ハヤカワSF文庫)p101より

小説でとある人物が酷い目に遭えば、同じ境遇の人が傷つく。その人種の方々が傷つく。政治や宗教を風刺すれば国民や信者が傷つく。犬を賛美すれば猫好きが傷つく。逆もまた然り。

批評も称賛も風刺も研究も議論も創作も、結局は誰かを傷つけてしまう。じゃあ、最初からそんなモノなければいいんです。

この歪な社会、我々現代人はあまり笑えないんじゃないでしょうか。
あらゆる価値観が可視化された現代では、常に他人の繊細な「審判の目」に晒されています。
「自分が不快に思ったものは攻撃しても良い」という価値観で排除しようとする人も実際にはいますから。

さて話を作品に戻しましょう。
この社会では本を読むことだけでなく、知的活動全般が不幸の原因になると考えます。それは既存のモノに「どうして?」「本当に?」といった懐疑を投げつける営みでもあるからです。

疑われた立場は傷ついてしまうし、疑う立場も真実の迷路に迷い込んで苦しんでしまう。そんな営みを自ら率先して行うなんて明らかにおかしい。
だからこそクラリスのように物事を深くまで考える人は異端扱いなのです。

そしてもう1つ。こういった「不快の排除」だけでなく「快楽の追求」もこの社会の特徴として挙げられます。
というのも「非現実世界にどっぷりハマれる」手軽な快楽が非常に充実しているんです。

例えば「巻貝」と呼ばれる超小型ラジオ。皆はコレを常に装着し、絶え間のない音声情報や音楽、広告などが流され続けていると言います。
また「パーラーの壁」と呼ばれるスクリーンには、常に話し相手になってくれるバーチャルな人物が存在し、視聴者が参加できる双方向メディアが展開されます。
画面の向こうの人々は決して自分の価値観を否定せず、現実世界を忘れて没頭できる「家族」として、現実世界の家族よりも虜になっていく。
そうして人々は孤独になることを恐れ、内省や思考をする時間をテクノロジーによって埋め尽くされていくのです。

本作で描かれる「手軽」で「非現実」な娯楽や情報を「常時」垂れ流され続ける、というのはスマホやインターネットに依存する私たち現代人の状況に良く似ています。

それに加えて、本作の社会では「スピード」も重要視されています。その部分も引用してみましょう。

二十世紀に入ると、フィルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、ダブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう。
要約、概要、短縮、抄録、省略だ。新聞記事は短い見出しの下に文章がたった二つ!
引用:『華氏451度』(著:レイ・ブラッドベリ 出版:ハヤカワSF文庫)p102より

このように「内容の短縮」が正義となり、情報消費のスピードに焦点が当たるようになります。

現代でも「タイパ」という言葉が定着して久しいですが、「いかに短い時間で情報を得られるか」といった観点は特に若い世代で主流になりつつあります。
このように、華氏451度で描かれる社会の価値観は「令和の世の一歩先」を予見していると私は感じます。

手軽で刺激的な快楽を求め、万人の不快を排除した社会。
ここで暮らす人間は皆幸福です。だからこそ誰かの思想を疑うような知識人は……いや、「知」はいらない。
知の源泉となる本は「人々が不幸になる種」だ。全て燃やしてしまえ。それが平和だ。

静寂と思考の余白を埋める、絶え間ないノイズ。
要約され、過度に単純化された情報
現実より魅力的な非現実空間。

そんなモノで満たされた幸せなディストピアなんです。

さて、さらにストーリーを進めます。クラリスはモンターグと出会った日に、こんな問いを投げかけました。
「あなた、幸福なの?」と。

この世界で”幸福でないこと”など考えてもみなかったモンターグは、彼女の問いに頭を巡らせることになります。
実は、この時点で彼にも「知的活動を好む資質」があることが分かるんです。
他の人ならクラリスに何を問われても一蹴するところを、モンターグは「変なことを言ってる」と思いながらも耳を傾け、立ち止まって考えようとします。
彼は自分の生活や仕事に誇りを持っていながらも、潜在的に「社会や人生に対する漠然とした不満・恐怖」を抱いていたのだと推測できます。

そしてその後、決定的な事件が起こります。
いつものように昇火活動に向かった日のこと。そこはとある老婆の家でした。
老婆は大量の本を所有していたため家ごと燃やそうとするのですが、彼女は本を抱えたまま家から出ようとしません。

ベイティー隊長は「いつもの抗議だよ」と気にも留めませんが、最期まで老婆は家から出ずに、本とともに自死を選びました。
これを見たモンターグは「それほどまでに執着する”本”には一体何が書かれているんだ?」と本に興味を抱いてしまいます。
クラリスの問いに心が揺らいでいたさなかでの出来事だったため、より強く興味を惹かれたのでしょう。彼は、本を盗んで家に持ち帰ってしまいました。

昇火士でありながら本を盗むという罪を犯したモンターグは、その後どうなってしまうのか。
ここから先のストーリーは、ぜひ原作をご確認ください。

構造解釈:手軽な快楽の行き着く先とは?

続いては、そんな『華氏451度』の世界がどんな惨状になっているのかを紐解きます。
SFの面白いポイントでひとつ挙げられるのは「とある世界線の未来予想図」であること。

想定された「思想・社会体制・テクノロジー・政治」がどのような結末を生むのか、それを物語形式で見せてくれるのが魅力です。

他の古典SF例

『1984』一党独裁による超監視社会
『素晴らしい新世界』徹底された人間の品種・階級管理社会
『動物農場』社会主義国家の痛烈なオマージュ

さて、この社会のマイナス要素としてまず挙げられるのが「思考の多様性と知的活力の消失」です。
人々は簡略化された情報を暗記し、かつスピーディーで過激な娯楽で手軽な快楽を求め続けます。

しかし市民たちは「自分が堕落した」とは思っていません。彼らにとっては「賢さ=知識量」であり、「自分たちはちゃんとモノを知っている」と思っています。その部分を引用してみましょう。

ひとつの問題に二つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、なにも教えないことだ。
――中略――
国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。不燃性のデータをめいっぱい詰め込んでやれ、もう満腹だと感じるまで”事実”をぎっしり詰め込んでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰め込むんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になれる。
引用:『華氏451度』(著:レイ・ブラッドベリ 出版:ハヤカワSF文庫)102~103pより

「自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実」は自戒としたい台詞です。
単純化された知識を記憶して賢くなった気にならないようにしないと……といつも思っています。

そして、ここで大切なのは「ひとつの問題に二つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。」という台詞。
これこそが「思考の多様性」と「知的活力」を封じる価値観と言えます。

こうして誰もが物事を考えなくなった華氏451度の社会では、他者との関わりが極限まで希薄になります。
「画一的な価値観」で「手近な快楽に溺れられる世界」では、他者が何を考え、どう行動するかなんて知る必要がありません。

隣人と会話を交わすことはない。夫婦であってもお互いの想い出を記憶できない。家族がどこで何をしようが無関心。最終的には自分に起きた悲劇すらよく理解できないようになります。
だからこそモンターグは「他者と会話を交わそうとする」クラリスに興味を持ったのです。

③ メッセージを深堀り:知識の持つ本当の意味とは

本作で私が非常に面白いと思うポイントは、主人公と対立する「ベイティー隊長」という存在です。
ベイティーはこの社会のシステムや価値観を称賛し、主人公を諌める一方で、膨大な書物を読んできたであろう「知識人」の側でもあるのです。

モンターグを全否定しながらも多くの書物からスラスラと文章を引用してみせる彼の姿は、知性を持ちながら”反知性主義”に奉仕するという、自分自身を騙し続けた成れの果てだとも解釈できます。

とあるシーンの話です。モンターグが本を盗んだ罪悪感から病欠を装って家にいたところ、ベイティー隊長が見舞いと称して訪ねてきます。そして、彼の迷いを見透かしたかのようにこう言いました。

昇火士の仕事をしていると、本は何を言っているんだろうと気になるもんだ。俺も昔必要に迫られて読んだことがある。だがなモンターグ。本は何もいっていないぞ。人に教えられることなんかひとつもない。信じられることなんかひとつもない。お前は迷子になるだけだ。

本はなにもいっていないぞ!人に教えられることなんかひとつもない。信じられることなんかひとつもない。
小説なんざ、しょせんこの世に存在しない人間の話だ、想像のなかだけの絵空事だ。
ノンフィクションはもっとひどいぞ。どこぞの教授が別の教授をばか呼ばわりしたり、
どこぞの哲学者が別の哲学者に向かってわめきちらしたり。
引用:『華氏451度』(著:レイ・ブラッドベリ 出版:ハヤカワSF文庫)105pより

本はなにもいっていないぞ!」という台詞は非常に重要です。
そう、確かに彼の言う通り「本は何も言っていない」……すなわち、本の存在そのものが万人に「特別な意味や恩恵」を与えてくれるわけではない。

取りようによっては、発信者も内容も信用ならない、ただの言葉の羅列に過ぎないのかもしれません。だからこそそこには人間の”解釈”や”使い方”が介在します。

ベイティーは様々な書物に触れていますが、そこから学ぶべき価値ある教訓、すなわち他者への共感や人生の深みといったものを見出すことはありませんでした。
むしろ、彼は自らの知識を、他者を支配したり傷つけたりするための武器として用います。

その態度は、知識を人類の発展のために共有・保存しようとする「本を愛する人々」とは正反対。
もはやベイティーにとって、知識は根絶すべき苦痛の源でしかないのです。

つまり「華氏451度」で語られる本質は「本が無くなったら困るよね、本って大事だよね」という単純なものではなく、知識を通じて「自己や世界を深く考える力」「他者へ共感したり手を取り合ったりすること」の尊さだと、私は解釈します。
本は何も言わないからこそ「何を言っているか」を解釈して、それを生活にどう活かすかが重要。

加えて、本作では「学問の発展」についても描かれていると解釈します。
学問が発展するためには先人の言説や研究を肯定して引き継ぐだけでなく、「それが本当に正しいのか」といった反駁や実証が必要になります。

先人の考えを真っ向から否定する場合もあれば、それを土台に改良・発展する場合もある。つまり「疑問を持つ」「事実を疑う」という姿勢は、学問の発展には欠かせないのです。

でもこの世界ではもう「疑う」ことが愚かだとみなされる。
知識が規制されて、疑うことや考えることも放棄したら、その仕組みによって加速度的に知性は失われるはずです。

また、「多様な意見の重要性」も強烈なメッセージとして捉えられます。
本作の「一個人の意見」レベルであっても誰かを傷つける言説を許さないという姿勢は、現代の『キャンセル・カルチャー』、つまり問題発言をした人物などを社会的に排斥しようとする動きや、「コールアウト文化」「炎上」を巡る議論と非常にリンクします。

干渉するべきではないそれぞれの価値観まで「傷つけられた」と押し付けてしまうこと。
配慮をしすぎることで「意見として言ってはいけないこと」「思想そのものが弾圧されること」が不文律的に浸透すると、行き着く先は『華氏451度』になる気がしています。


皆様もぜひ、モンターグの行く末を確かめてみてくださいね。

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