本日は、私の愛する近代文学の名作、芥川龍之介の『河童』を語ってまいります。
「河童」と聞くと、キュウリが好物な伝承上の生き物を思い浮かべるでしょう。本作は、とある狂人がその「河童の世界」に迷い込んでしまった時のお話です。河童社会の価値観を通じて、人間社会の矛盾や建前を皮肉った痛烈な風刺文学となっています。
本作は少し長い物語ですので、特定の場面をピックアップしながら進めていきます。
① 主人公が彷徨う河童の世界
これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。
彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。
彼はただじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。
年よりも若い第二十三号はまず丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであろう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。
最後に、――僕はこの話を終わった時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳骨をふりまわしながら、だれにでもこう怒鳴りつけるであろう。
――「出て行け!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ!この悪党めが!」引用:『河童』(芥川龍之介)
「河童」はとある精神病棟の患者「第二十三号が回想する思い出」という形で構成されています。
厳密に言うと、導入の一人称視点はそれを記録する「僕」ですが、作品の主人公は「二十三号」と捉えていいでしょう。
この「だれにでもしゃべる話」が、河童ワールドに迷い込んだ話です。
ここからは彼(二十三号)の視点で回想が始まります。『河童』は何と言っても、この書き出しが素晴らしい。
本作の概要は「精神病棟の患者が河童の国に行った経験を話す」というものですが、ここで「精神病棟の患者」と前置きすることに大きな意義があります。
この書き出しの時点で彼の話が「妄言」や「嘘」である可能性を示唆しているんです。「これは狂人の話なんですよ」と前置きすることで、物語の信憑性がぐっと下がる。
また、ここでタイトルに触れましょう。
『河童』という作品は、正式には『河童-どうかkappaと発音してください-』というタイトルです。
ここは完全に私の解釈ですが、サブタイトルも「信憑性」の面でかなりいい味を出していると感じます。
河童という存在が人々に広く知られているという先入観を全て排除してこのタイトルを読むと「この謎の存在の正しい読み方を知っている人」という印象が際立ちませんでしょうか。
「本当に河童に会ってきて、正確な読み方を確かめた人の主張」にも見えるんです。
つまり、このタイトルと書き出しの時点で「この話の信憑性とミステリアスさ」をかなり複雑にしていると感じます。
狂人の話だから確かに信憑性はない。妄言に違いない。
でも、彼の語り口には妙な現実味を感じる。
彼は本当に狂っているのか?私達の世界は本当に正常なのか?
「狂人」は一体誰なのか?
そんな混沌状態に陥る前座として、この書き出しと副題は非常にいい味を出していると私は感じます。
ちなみに、「狂人」のように言葉の信憑性が不安定な語り手を、文学の表現技法では「信頼できない語り手」と言います。
そしてもう一つ触れるべきは最後、彼が怒り出すシーンですね。
河童の世界の話をした後、彼は決まって激昂するそうです。しかも「人間を非難」しているように見えます。
河童の世界で「何かあった」と思わせる彼の豹変ぶり。では、その世界に迷い込んだシーンを読んでみましょう。
三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。(中略)
僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。(中略)
僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時計をのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。
が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。
すると、――僕が河童というものを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。
僕の後ろにある岩の上には画にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。引用:『河童』(芥川龍之介)
彼は三年前のある日、穂高山へ登ろうとしている最中、深い霧のせいで上手く足を運ぶことが出来ずにいました。
そんな中で休憩をしている際、河童に出会ったそうです。
このあと彼は思わず河童を捕まえようとします。しかし河童は「猿に劣らず足が早い」そうで、すばしっこくなかなか捕まりません。逃げ出す河童と追いかけっこをしているうちに、彼は落とし穴に足をすべらせ、気を失ってしまいます。
彼が目を覚ました先では、どのような光景が広がっていたのか。続きを読んでいきます。
そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰向に倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。
のみならず太い嘴の上に鼻目金をかけた河童が一匹、僕のそばへひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。
その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」という手真似をし、それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。
するとどこからか河童が二匹、担架を持って歩いてきました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を静かに何町か進んでゆきました。
僕の両側に並んでいる町は少しも銀座通りと違いありません。
やはり毛生欅の並み木のかげにいろいろの店が日除を並べ、そのまた並み木にはさまれた道を自動車が何台も走っているのです。引用:『河童』(芥川龍之介)
目を覚ました先では、大勢の河童の顔が広がっていました。どうやら、完全に河童の世界に足を踏み入れてしまったようです。
ここで、河童の世界の概要を説明しておきましょう。まず、町並みは人間の世界と変わらないそうです。普段見ているであろう銀座通りと「少しも違いない」と記述されています。
また、文化レベルも当時の日本と変わらないそうです。家にはピアノやテーブル、椅子なんかもちゃんとあるとか
私はこの設定が重要だと思っています。本作のストーリー構造は「人間社会」と「河童社会」の対比。
ここで河童社会がいわゆる妖怪や怪物の「ファンタジー的な世界」だったら、それぞれの世界が比較しづらくなってしまいます。
住んでいる場所も文化レベルも同じだからこそ、「考え方や価値観」の違いによる社会構造の対比が浮き彫りになります。
そして、主要な登場人物(河童)も押さえておきましょう。
・チャック:医者。河童の世界に入り込んだ主人公を診察してくれた。
・バッグ:漁師。主人公が最初に出会った河童。
・ゲエル:資本家。
・トック:詩人。
・マッグ:哲学者。
・クラバック:音楽家。
・ラップ:学生。
では、河童という種族そのものの特徴を解説します。
彼が語る河童の容姿は、私達がイメージする河童とあまり相違ないようです。
頭には皿があり、その周りには短い毛が生えている。また手には水かきを持っており、皮膚の下には厚い脂肪がある。

しかし、河童に会ったことで初めて知った特徴もあります。例えば皮膚の色。
私たちは緑色をイメージするかもしれませんが、彼が見た河童はカメレオンと一緒で周囲の色に擬態できるそうです。
また、頭のお皿は年齢によってどんどん硬くなっていき、若者と老人では手触りが違うそうです。
そしてお腹にはカンガルーのように袋があり、物入れとして機能しているとか。知らない情報を詳細に語られると「本当に会ってきたんじゃないか」という信憑性が増しますね。
では、河童の世界と種族の特徴を押さえたところで、続きを読んでいきましょう。
チャックは一日に二三度は必ず僕を診察にきました。また三日に一度ぐらいは僕の最初に見かけた河童、――バッグという漁夫も尋ねてきました。
河童は我々人間が河童のことを知っているよりもはるかに人間のことを知っています。それは我々人間が河童を捕獲することよりもずっと河童が人間を捕獲することが多いためでしょう。
捕獲というのは当たらないまでも、我々人間は僕の前にもたびたび河童の国へ来ているのです。のみならず一生河童の国に住んでいたものも多かったのです。
なぜと言ってごらんなさい。僕らはただ河童ではない、人間であるという特権のために働かずに食っていられるのです。現にバッグの話によれば、ある若い道路工夫などはやはり偶然この国へ来た後、雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。引用:『河童』(芥川龍之介)
河童社会では人間が優遇されています。
河童社会では度々人間が迷い込むことがあるそうで、そのようにやってきた人間は「特別保護住民」として歓迎される。その手厚い待遇を気に入って、生涯河童の世界に住む人間もいるようです。
これも、人間社会で「まるで別の生き物のように」特別な待遇を受ける特権階級を皮肉っているように解釈できます。
何はともあれ彼は、「特別保護住民」として河童の世界にしばらく住むことになりました。
彼はそのうち河童社会の言葉や風習、習慣なども徐々に覚えていき、また彼も人間のことを河童に教えていきます。
そんな中、彼はとあることに気づきます。続きを読んでいきましょう。
② 人間社会に向けた痛烈な風刺
僕はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。従って河童の風俗や習慣ものみこめるようになってきました。
その中でも一番不思議だったのは河童は我々人間の真面目に思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを真面目に思う――こういうとんちんかんな習慣です。
たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。
つまり彼らの滑稽という観念は我々の滑稽という観念と全然標準を異にしているのでしょう。僕はある時医者のチャックと産児制限の話をしていました。
するとチャックは大口をあいて、鼻目金の落ちるほど笑い出しました。僕はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいかと詰問しました。
なんでもチャックの返答はだいたいこうだったように覚えています。「しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」
引用:『河童』(芥川龍之介)
河童社会では「人間の真面目に思うことをおかしがり、人間のおかしがることを真面目に思う」と彼は考察します。
この価値観の違いこそが、本作で描かれる重要なテーマ。「人間社会の風刺」です。
河童社会の価値観を元に「人間社会の歪さ」を浮き彫りにし、痛烈な風刺として描いているのです。
そしてこの「風刺」には、芥川自身の経験や当時の社会問題が大いに反映されています。
ちなみに産児制限とは「女性の健康や家庭の経済状況を考えて、子供の数を計画的に調整しよう」という社会運動を指します。
子どもを多く産むことで家庭の経済状況が圧迫されたり、女性の負担や社会進出が阻まれてたりする現状を緩和するための考え方です。
日本では大正時代にこの運動が行われたそうなので、作品の時期を考えても社会問題の一つではあったのでしょう。
そして「しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」という台詞。
確かに「出産」という事象を語る際に、産児制限の話では「親」が主題に置かれているのは間違いありません。チャックの主張はある意味的を射ています。
反対に、河童社会の出産では「子どもの意思を尊重」すると言います。実際に本文を読んでみましょう。
けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテエブルの上にあった消毒用の水薬でうがいをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」引用:『河童』(芥川龍之介)
かなり衝撃的なシーンですが、河童社会では出産の瞬間、本人に「生まれてくる意思」を確認するそうです。
そして「生まれたくない」と答えれば、生まれる前に殺してしまうと。
この一連のやり取りは、芥川が抱える恐怖が色濃く反映されていると解釈できます。
芥川の実母フクは、彼が記すところの「狂人」だったと言います。話によると芥川は、母親が抱える精神病の遺伝性を強く恐れ「いつか自分も発狂するのではないか」と怯えていたそうです。
彼はその頃よく、神經衰弱のひどい時なぞ、さういふ母から暗示を受けて、
「僕も氣狂になるのではないかしら?」と恐怖していた位だった。引用:『芥川龍之介論』(堀辰雄)
実際彼は極度の神経衰弱に悩まされ、不眠、幻覚、幻聴、強迫観念に苦しんでいたと言います。この生涯悩まされた「遺伝性の恐怖」が反映された文章と言えるでしょう。
作中の台詞がそのまま芥川の思想とイコールだと断定するのは早計ですが「生まれてこなければよかったと思えるほどの苦しみを抱えていた」のは想像に難くありません。
また、このシーンでは「出産に関して親の都合ばかり考える傲慢さ」が浮き彫りになっていると解釈できます。
もちろん子どもに確認を取ることは出来ませんが、「本来ならそうしなければならないほど」この世界は過酷なものである、とも読み取れます。
では、他の「人間社会の風刺・皮肉」も読み解いていきましょう。
遺伝的義勇隊を募る
健全なる男女の河童よ
悪遺伝を撲滅するために
不健全なる男女の河童と結婚せよ僕はもちろんその時にもそんなことの行なわれないことをラップに話して聞かせました。するとラップばかりではない、ポスタアの近所にいた河童はことごとくげらげら笑い出しました。
「行なわれない? だってあなたの話ではあなたがたもやはり我々のように行なっていると思いますがね。
あなたは令息が女中に惚れたり、令嬢が運転手に惚れたりするのはなんのためだと思っているのです? あれは皆無意識的に悪遺伝を撲滅しているのですよ。
第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鉄道を奪うために互いに殺し合う義勇隊ですね、――ああいう義勇隊に比べれば、ずっと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思いますがね。」引用:『河童』(芥川龍之介)
まず「義勇隊」とは「民間人による志願制の武装集団」のことです。徴兵制度とは異なり、有事の際に自ら志願して集うのが特徴と言えます。
この「一本の鉄道を奪うために」というのは、日露戦争後に起きた南満州鉄道の利権問題の話でしょう。
河童社会にも「義勇隊」が存在すると言います。それは「悪い遺伝を撲滅するための義勇隊」です。
河童が言うところの「不健全な河童」同士が結婚して子孫を残した場合、より「不健全な河童」が生まれる可能性が高まるため、意図的に「悪遺伝を薄める作業が必要」だと河童は考えます。
遺伝子プール全体を管理し、長期的に見て「悪遺伝」の影響を最小限に抑えるための、彼らなりの合理的な戦略というわけです。
当然主人公は非道徳的だと捉えますが、学生の河童であるラップは「貴方がたも同じことをしている」と指摘します。
「令息が女中に惚れる」「令嬢が運転手に惚れる」というのは、「身分違いの恋愛・結婚」の具体例でしょう。
それは人間も本能的に悪遺伝を撲滅しようとしているから、そういう行動に出ているのだと。
要するに河童たちは「分かりやすい残酷さだけを嫌う表面的な倫理観」を皮肉っていると考えられます。
ここでおそらく意識的に強調されているのは「河童社会を極端な仕組みにしている」ことです。
このように極端な描き方をした上で「そんなのおかしいよ」と読者に思わせてから「いやいや、人間だって実質的には同じことをしてるじゃないか」と反論させることで、形式にばかり拘り、表層的にしか物事を見られない人々を批判しているのだと解釈できます。
では、これと同じ手法で描かれた他の対比も見てみましょう。
実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行なわれるそうです。
従ってまた職工の解雇されるのも四五万匹を下らないそうです。
そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も罷業という字に出会いません。僕はこれを妙に思いましたから、ある時またペップやチャックとゲエル家の晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねてみました。
「それはみんな食ってしまうのですよ。」
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。職工屠殺法があるのですから。」
「つまり餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒瓦斯をかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食うというのは、……」
「常談を言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」引用:『河童』(芥川龍之介)
この「七八百種の機械が新案され、大量生産が行なわれる」というのは、まさしく当時の社会問題として現れた「産業革命以降の機械化による失業者の増加や、資本主義社会における人命軽視」がベースにあると解釈できます。
人手を必要としなくなったことで生まれた大量の失業者と、「利益を最大に追求する」という価値観のもとにある、人間の命を軽視した風潮への批判です。
さっきと同じく「失業者を食肉にする」というかなり極端な体制ではありますが、実際労働者のことは「殺してないだけでそれくらい軽視してる」というメッセージに捉えられます。
食肉にするという極端な方法だから「かわいそう」ってなるなんて、河童からしたらお笑いだと。
また、こういう例え話で大切なのは「主張を見誤らない」ことです。この一連の流れは「人間社会もこうしろ」ということではなくて、「気付いてないだけで人間社会でも凄惨なことが起きている」という問題提起です。
続いては河童社会の「表現規制」について見ていきましょう。
主人公が音楽家のクラバックの演奏を聴きに音楽会へ行った際のことです。
クラバックの演奏中に突然巡査がやってきて「演奏中止」を命じられ、会場は大混乱になりました。
これは、河童社会において「演奏」が禁じられてるためです。その理由を読んでみましょう。
これですか?これはこの国ではよくあることですよ。元来画だの文芸だのは……」
マッグは何か飛んでくるたびにちょっと頸を縮めながら、相変わらず静かに説明しました。
「元来画だの文芸だのはだれの目にも何を表わしているかはとにかくちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」引用:『河童』(芥川龍之介)
これはかなり強い言葉を使った皮肉だと解釈できます。
背景として当時の日本には「出版法」と「新聞紙法」が存在し、出版物や新聞の文章・表現に対して規制が設けられていました。
それを踏まえてこの文章を紐解くと、まず、河童社会では「耳がないために音楽が理解できないから」演奏を禁じていると言います。
つまり、「禁止されるもの=禁止する側が理解できないもの」という図式が成立します。
そして「絵だの文芸だのは何を表してるかだれの目もわかるはず」という痛烈な一文も踏まえると「オツムが欠けているから”文芸”を理解できずに規制するんだろう?「理解できるもの」なら怖くないはずだもんなあ?」というニュアンスになります。
さて、では河童の世界をもう少し見ていきましょう。続いては河童社会の恋愛事情についてです。
実際また河童の恋愛は我々人間の恋愛とはよほど趣を異にしています。雌の河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をとらえるのにいかなる手段も顧みません、一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追いかけるのです。現に僕は気違いのように雄の河童を追いかけている雌の河童を見かけました。
いや、そればかりではありません。若い雌の河童はもちろん、その河童の両親や兄弟までいっしょになって追いかけるのです。
雄の河童こそみじめです。なにしろさんざん逃げまわったあげく、運よくつかまらずにすんだとしても、二三か月は床についてしまうのですから。引用:『河童』(芥川龍之介)
河童社会の恋愛は、雌がかなりアグレッシブなようです。とにかく激しい求愛に、雄はほとほと疲れ果て、その疲労からくちばしが腐り落ちてしまったりするようです。
これは風刺というより、芥川自身の経験が色濃く反映されていると解釈できます。当時、芥川には妻子がいながら「秀しげ子」という歌人に執拗な求愛を受けていました。
彼女は自身の子どもを連れて芥川宅まで何度も押しかけるなど、いわゆるストーキングと取れるような行動を繰り返していたと言います。本妻に不足を感じていた「文芸的知性・教養」を求めて、文化人と不倫をしていた芥川が事の発端ではあるのですが。
とはいえ、このような行動に精神をすり減らし、ノイローゼ状態になっていたのも事実だそうで。彼の『遺書』にはこのように記されています。
しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。
僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。
唯相手を選ばなかつた為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。引用:『遺書』(芥川龍之介)
利己主義、動物的本能……これはそのまま雌の河童に反映してると捉えられます。自身の経験で感じた「恋愛や女性関係」が生み出す負の側面を映し出したものだと解釈できます。
さらに、この場面の終わりにはこのような記述もあります。
ただマッグという哲学者だけは(これはあのトックという詩人の隣にいる河童です。)一度もつかまったことはありません。
これは一つにはマッグぐらい、醜い河童も少ないためでしょう。しかしまた一つにはマッグだけはあまり往来へ顔を出さずに家にばかりいるためです。「じゃあなたのように暮らしているのは一番幸福なわけですね。」
するとマッグは椅子を離れ、僕の両手を握ったまま、ため息といっしょにこう言いました。
「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのももっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こるのですよ。」引用:『河童』(芥川龍之介)
ここで特筆すべきは「あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こる」部分。
マッグは恋愛市場において需要が低く、かつ市場に参加する機会すら放棄している。そのおかげで恐ろしい雌の河童から危害を加えられることはありませんが、「どうかすると追いかけられたい気も起こる」と言います。
これはやはり「恋愛そのものの価値」は否定していないため。
先程の遺書にも「秀夫人の後に恋愛をしなかったわけではない」「関係を持たなかったのは道徳でなく利害の打算だ」と書かれています。
さて、ではここでニーチェの「超人思想」にも触れていきます。本作には哲学者のマッグが登場するだけでなく、実在の哲学者の名前が用いられ、思想の話についても言及されます。
超人思想とは「自らの意志で価値を創造し、自分の価値観で人生を肯定する考え方」のことです。
作中では詩人のトック、音楽家のクラバックが「超人思想」の影響を受けています。
まず、トックの記述について見ていきましょう。
③ 『河童』を形づくる嫌悪
トックはよく河童の生活だの河童の芸術だのの話をしました。トックの信ずるところによれば、当たり前の河童の生活ぐらい、莫迦げているものはありません。親子夫婦兄弟などというのはことごとく互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです。ことに家族制度というものは莫迦げている以上にも莫迦げているのです。トックはある時窓の外を指さし、「見たまえ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すように言いました。
「では君は何主義者だ?だれかトック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……」
「僕か?僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」
トックは昂然と言い放ちました。こういうトックは芸術の上にも独特な考えを持っています。トックの信ずるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬというのです。引用:『河童』(芥川龍之介)
トックは芸術家であるがゆえ、他者の支配を受けない「超人」であろうと努めます。
同じような考えを持った芸術家たちが集う「超人倶楽部」なるものも存在し、主人公もこのクラブに度々遊びに行きました。
故にトックは「当たり前の河童の生活」を否定しており、特に家族制度といったものを「馬鹿げている」と表現しています。
これは「家族というしがらみが様々な負担や苦境を生むのに、それを自ら選び取っている」からだと思われます。
しかし、トックは次のようにも述べています。
そのまた窓の向こうには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子どもの河童といっしょに晩餐のテエブルに向かっているのです。
するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の容子を見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」
けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守っていました。
それからしばらくしてこう答えました。
「あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね。」引用:『河童』(芥川龍之介)
このシーンのポイントは「あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね」という台詞でしょう。本当に素晴らしい一文。
これは前段の「平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブル」がヒントになります。ここで言う「卵焼き」は平和な家族の象徴として読み取れますね。
家族が故に引き起こされる負担や苦しみを馬鹿げていると思う一方で、“家庭の温かみ”に憧れる自分もいる。
なぜならそれは激情的な恋愛よりも衛生的だから。
非常にお洒落な言い回しでありながら、人間の矛盾した感情を的確に突いた良い台詞だと思います。
この台詞も芥川の経験がベースになっていると捉えられます。芥川は母フクが発狂した後、母の実家に引き取られました。
そこでは愛情を持って育てられ、彼も「養家の父母を、――殊に伯母を愛していた」と言っていますが、『遺書』にはこうも記しています。
僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。
(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。)引用:『遺書』(芥川龍之介)
そこには「良い子でいなければいけない」プレッシャーもあったのかもしれません。また著書『点鬼簿』にはこう記しています。
僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。
引用:『点鬼簿』(芥川龍之介)
悲しい一文です。遺伝性による苦しみも、本当の父母に育てられなかったことも、家庭でワガママを言えなかったことも事実なのでしょう。
でも、「家族や母親の尊さ」を根本から否定しているなら、こんな文章は書かないと私は解釈します。「母らしい親しみ」を”本当は欲しかった”からこそ「一度も」「母親らしい」というフレーズになったのではないでしょうか。
ここまで読んでみると単なる風刺というより、芥川自身の苦悩が色濃く反映されているように思えます。
では、ここでネタバラシです。
芥川は、劇作家の吉田泰司に宛てた書簡で次のように述べています。
『河童』はあらゆるものに対する、――就中僕自身に対するデグウ(嫌悪)から生まれました
「あらゆるもの」特に「自分自身」に対する嫌悪から生まれた「河童」という作品。
つまり、本作で描かれる「河童社会の体制」や「河童が抱く思想・感情」はすべて、芥川自身の嫌悪を表現した存在なのです。だから矛先が社会や他人だけとは限らない。
『河童』における皮肉や風刺は「俺が正しくて社会が間違っている!だから指摘してやろう!」といった単純な主張ではなく、芥川が人生で抱えてきた「苦悩」「憂鬱」「自己矛盾」を表現したものだと読み取れます。
ちなみに、歌人の斎藤茂吉に宛てた書簡では「河童などは時間さえあればまだ何十枚でも書けるつもり」と言っています。彼のデグウがどれほどのものであったかは想像に難くないでしょう。
さあ、ではいよいよ物語の終盤。先に説明した通り「超人」であろうと努めたトックは、芸術の苦しみから自殺をしてしまいます。
トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植の中に仰向になって倒れていました。
「なにしろトック君はわがままだったからね。」
硝子会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。
「もう駄目です。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になりやすかったのです。」
「何か書いていたということですが。」
哲学者のマッグは弁解するようにこう独り言をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。僕らは皆頸をのばし、(もっとも僕だけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。」
マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」引用:『河童』(芥川龍之介)
私はここに「超人思想」によって救われなかった人間が描かれていると解釈します。
超人思想はどこまで行っても「強者の理屈」であり、芥川に代表される近代知識人が抱える病的な神経衰弱とは相性が悪すぎる、と感じていたのではないでしょうか。
かといってニーチェを否定したいのかと言えば、それも違うと私は思います。他の作品も含めて「思想哲学の解釈」が反映されてるものが多いので、これも1つの解釈なのだと思います。
また、現場にたまたま立ち寄った超人クラブの音楽家、クラバックはトックの書き遺した詩に夢中になりました。
周囲の言葉も耳に届かず、詩の意味を彼なりに解釈しきると「しめた!すばらしい葬送曲ができるぞ。」と叫び、出ていってしまいました。
クラバックもまた「超人たれ」の1人。「超人思想」の影響を受けた2人の人生を対比的に描いているのだと思います。
さて、トックの死後、心霊学協会がトックの幽霊との接触に成功します。
その接触時のやりとりを記した記事に主人公は目を通します。
問 君は何ゆえに幽霊に出ずるか?
(君(トック)はなぜ化けて出るのだ?)
答 死後の名声を知らんがためなり。
(死後の名声を確かめるためだ。)
問 君――あるいは心霊諸君は死後もなお名声を欲するや?
(君や幽霊たちは死んだ後も名声を欲しがるのか?)
答 少なくとも予は欲せざるあたわず。しかれども予の邂逅したる日本の一詩人のごときは死後の名声を軽蔑したり。
(少なくとも私は欲しがらずにはいられない。しかし、私が出会ったとある日本の詩人は死後の名声を軽蔑していた。)
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
(その詩人の名前は?)
答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
(不幸にも忘れてしまった。ただ彼の十七文字の詩(俳句)を一つ覚えているだけだ。)
問 その詩は如何?
(その詩の内容は?)
答「古池や蛙飛びこむ水の音」。
(古池や蛙飛びこむ水の音(松尾芭蕉の俳句))
問 君はその詩を佳作なりとなすや?
(その詩を良い作品だと思うか?)
答 予は必ずしも悪作なりとなさず。ただ「蛙」を「河童」とせんか、さらに光彩陸離たるべし。
(必ずしも出来の悪い作品だとは思わない。ただ「蛙」を「河童」にすればより素晴らしく輝かしいものになる。)
問 しからばその理由は如何?
(それはどうして?)
答 我ら河童はいかなる芸術にも河童を求むること痛切なればなり。
(私たち河童は、どのような芸術にも河童の存在を痛切に求めるからだ。)
問 心霊諸君の生活は如何?
(幽霊のどのように生活している?)
答 諸君の生活と異なることなし。
(生前の世界と変わらない)
問 しからば君は君自身の自殺せしを後悔するや?
(では君は自殺したことを後悔している?)
答 必ずしも後悔せず。予は心霊的生活に倦まば、さらにピストルを取りて自活すべし。
(必ずしも後悔していない。幽霊としての生活に飽きたらまたピストルで自殺する。)問 予の死後の名声は如何?
(私の死後の名声はどうだ?)
答 ある批評家は「群小詩人のひとり」と言えり。
(ある批評家は「よくいるつまらない詩人の一人だ」と言っていた。)
問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含めるひとりなるべし。予の全集は出版せられしや?
(そいつは詩集を贈らなかったことを恨んでいるだけだ。私の全集は出版されたか?)
答 君の全集は出版せられたれども、売行きはなはだ振わざるがごとし。
(出版はされたが、売れ行きは大変に悪い。)
問 予の全集は三百年の後、――すなわち著作権の失われたる後、万人の購うところとなるべし。予の同棲せる女友だちは如何?
(私の全集は三百年後、――つまり著作権がなくなった後に誰もが買うようになるはずだ。私と一緒に暮らしていた恋人は?)
答 彼女は書肆ラック君の夫人となれり。
(彼女は本屋のラックの妻になった。)
問 彼女はいまだ不幸にもラックの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何?
(彼女はまだ不幸にも、ラックが義眼であることを知らないのだな。私の子供はどうしている?)
答 国立孤児院にありと聞けり。
(国立の孤児院にいると聞いている。)引用:『河童』(芥川龍之介)
彼はこの記事を読んだあと、だんだん河童の世界にいることが憂鬱になってきました。ここのポイントは3点。
まずは「トックが自殺をした理由」です。死後の名声を知りたいからと明言しています。
トックは芸術家として「死後の名声」を求めています。が、後に判明するように彼の死に特別意味を見出すものは少なく、全集の売れ行きも芳しくない。
2つ目は松尾芭蕉の俳句です。「蛙」の部分を「河童」にすればより良いものになるとトックは言います。
それは「私たち河童は、どのような芸術にも河童の存在を痛切に求めるから」だと。
つまりトックは芸術的な美を「自己投影」によって見出していることになります。
しかしトックは以前「芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術」と言っていました。そのわりには範囲が狭い。
「純粋な美」の追求ではなく「河童の存在(自分たちの自己投影や自己愛)」が中心となった美を追求していたことに、主人公はショックを受けたのではないかと思います。
3つ目は「永続的な苦しみ」です。
彼は死後の世界も現世と大して変わらず、この世界に飽きたらまた自殺をすると言います。
つまりトックの証言が本当であれば、自殺は苦しみからの救済を意味しません。きっと色々な世界を転々とするだけでしょう。
ここまでの回答をまとめるとトックの記事からは、
死んでもなお名声を求める「芸術家の虚栄心」
自分たちに基づいたものを良しとする「自己愛中心の芸術観」
そして永遠に終わらない「芸術家としての苦しみ」があると読み取れます。
友人であったトックの死とともに、死んだ後に彼が芸術家として考えていたことが明るみになり、失望や虚無に似た感情を得たのではないかと推測します。
そしてついに彼は憂鬱になり、人間の世界に帰ることを決意します。
主人公は河童に「ここへ来た路」を案内され、何とか人間社会へ戻ることが出来ました。しかし帰る直前、河童は「後悔しないように」と言い、彼も「後悔しません」と返しました。
その忠告通りと言うべきか……彼は戻った先で人間世界に居心地の悪さを感じはじめます。
長いこと河童社会で暮らしていたため、人間の皮膚の匂いや顔の造形が気持ち悪いと感じてしまったり、河童の言語が抜けなかったり。
そしてとある事業に失敗したことをきっかけに「河童の国に帰りたい」と思うようになりました。
しかし河童社会へ帰ろうとした彼は、そこで狂人と認定され精神病棟に入れられ、現在に至ります。
しかし彼は精神病棟に入れられた後も、河童がお見舞いに来てくれていると言います。
僕の病はS博士によれば早発性痴呆症ということです。しかしあの医者のチャックは(これははなはだあなたにも失礼に当たるのに違いありません。)僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。
僕はゆうべも月明りの中に硝子会社の社長のゲエルや哲学者のマッグと話をしました。のみならず音楽家のクラバックにもヴァイオリンを一曲弾いてもらいました。
そら、向こうの机の上に黒百合の花束がのっているでしょう? あれもゆうべクラバックが土産に持ってきてくれたものです。……
(僕は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)
それからこの本も哲学者のマッグがわざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になるはずはありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。――
(彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。)引用:『河童』(芥川龍之介)
書き手の視点では、二十三号が述べている「花」や「本」は見当たりません。
「じゃあやっぱり「河童の世界」なんてものはない」と示唆しているように読み取れますが、それは分かりません。
“いつから”幻覚が見えていたのかは謎ですからね。
河童の世界には確かに居たけれども、人間社会での失敗と河童社会への郷愁で精神がおかしくなっているとも解釈できます。結局、最初に言ってたように真実は闇の中。
この物語では、全体を通じて我々の「正気」を問いただしています。
物事の本質を捉え、極端に合理的な「河童社会」を描くことで、「人間社会が抱える狂気」を私たちに突きつけます。
そして、それを「信頼できない語り手(狂人)」の視点から描くことで、人間世界の「正しさ」をより不確かなものにしている。
これはあくまで私の結論ですが、本作の「河童社会」はユートピアではなくディストピアです。
つまり「人間社会よりも高尚な河童社会」を描いたのではなく、「人間社会はこれくらい狂ってるんだぞ。もしくはこれより狂ってるんだぞ」というのが本質。
ただ、これは単なる社会批判ではなく、芥川自身の嫌悪を表した作品であることには改めて留意が必要です。
似たようなものじゃないかと思うかもしれませんが、その嫌悪の中には自身に責任があるものも大いに含まれます。
的を射た社会批判もあれば、矛盾やワガママもある……そんな1人の弱い人間の感情を鏡写しにした世界であることは憶えておきましょう。
では、最後にあらためて冒頭を振り返ってお別れです。
彼は河童の世界を語り終えると、最後に必ずこう叫ぶそうです。
――「出て行け!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ!この悪党めが!」
引用:『河童』(芥川龍之介)
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『遺書』(掲載:青空文庫/著:芥川龍之介)
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